蜂蜜漬け紳士の食べ方
徹夜明けの今朝ばかりは、自分の電車通勤を恨んだ。
始発から二本目、三本目となれば、そこそこに『今日の出勤者』が電車に乗ってくるのだが
それがこんなにも徹夜明けの体と精神を痛めつけるものだとは。
『3番線、電車が参ります…』
穏やかな女性のアナウンスとともに、ホームへ電車が滑り込んでくる。
電車の到着にホームのざわつきは一層増し、人々は決められた定位置につこうと足を踏み出し始めた。
出る人数より入る人数の方が圧倒的に多い事に気付いたアキは、げんなりした。
シュー…と電車のため息と共に扉が開く。
途端に零れ出す人、人、人。
そして僅かな隙間を見つけて潜り込もうと出入口両脇に構えた人々の目は、どこと無く戦闘の色を帯びている。
他の客が負けじと車内へなだれ込む。
残り少ない席に賭けるか、それともドア付近に最初から絞って安全さを取るかどうか、車内の命運を分けるのだ。
とは言っても、彼らより先に、戦闘慣れしたサラリーマンらが早々に空いた席に滑り込んで行く。
もう彼女の視界には、空いた席など見当たらなくなっていた。
既に車両内にいた人も合わせれば明らかに「心理的な定員オーバー」なのだろうが、一旦車両内へと乗り込んでしまえば「じゃあ混んでるから次の列車にしよう」とは思えない。
次の電車も、その次の電車も、またその次の次だって、人が多いことに変わりはないのだ。
アキは細い体を上手く駆使し、出入り口付近の隙間へとうまく身を滑り込ませた。
若い男性が自分の直近にいたが、車両内の熱気でそんなことを気にする余裕はない。
鞄を前に抱える。
数分後、電車が緩やかに発車してようやく彼女は一息ついた。
朝の出勤時間は、恐ろしいほど車内に人が溢れている割に、波を打ったように静かだった。
駅を二つほど過ぎたところで、ふと目をあげる。
ある男性の手がアキの視界に入った。
ただその人が、揺れる車内で吊革を掴んだだけだったのだが、その情景はアキに甘い出来事を思い起こさせるには充分だった。
骨々しい手首。スラリとした指。
血管が浮き出る甲。
アキのぼやけた視線が、その見知らぬ男の手に釘付けになる。
伊達のそれと想い重ねて。
徹夜明けで思考力が緩んでいたのは明白だった。
けれど彼女がいくら瞬きをしようと、脳内に甘く浮かぶ出来事は鮮やかさを増すばかりで、一向に現実へ戻る気配を見せない。