蜂蜜漬け紳士の食べ方
個展を開くことになった伊達圭介は、驚くほど熱心にキャンバスへ筆を走らせていた。
取材を始める前、あの無気力に近かった彼が嘘のように精力的に。
しかし個展を開くために作品を描くということは、いくら「制作期間は短いから」と自負する伊達であっても、そのほとんどの時間を制作へ充てるということだった。
デートなんて甘ったるいものはもちろんのこと、
制作を開始してから…言うなれば、彼女と彼が恋人になってから、彼女は『まともな』伊達と共に過ごせていない。
彼女も彼女で社会人であるから、それは尚更だった。
珍しくアキが仕事を早めに切り上げて彼のマンションへ行けば、もっぱら話をするのは作業室で、お伴はキャンバス。
日曜に行っても、大概彼は徹夜明けで、その目の下に深く刻まれたクマと皺を見れば「伊達さん、今日はゆっくり寝て下さい」と言わざるを得なかった。
『次は、有楽町─…次は有楽町です─…』
仕事があってなかなか彼と逢えない。
彼女は、この事に文句を言う気はさらさらなかった。
「アキ。女性はね、男の人へ給料の事と『仕事と私とどっちが大事なの?』という事は言ってはいけないのよ」。
これは彼女の母親が、口を酸っぱくしてアキへ言っていた言葉だ。
仕事を持つ身として、母の言葉は真っ当であると分かるが、しかし同時にそれを理解できない女性も多々いることを彼女は知っている。
伊達圭介のファンの一人として、彼の活躍は素直に嬉しい。
彼が以前に筆を折った理由を知っているから、それは尚更に。
ただ…。
───アキ、おいで。
そう甘く言葉を落として、ソファへ誘う彼の低い声色。
くすぐるように耳を撫でてくる彼の手。
その場面を思い起こすだけで、彼女は体の真ん中から滲むような快感を思い出せた。
「…………」
アキは無意識に、自分の唇を舐める。
グロスが取れていたそこは少し乾いていて、皮膚の突っ張りすら感じたのは、幻なのだろうか。