幕末の恋と花のかおり【完】
一軒一軒、戸を叩いて避難させた。
そんな時のことである。
「火事です! 避難してください!」
小さな一軒家へ叫んだ。
なかなか家の中の人は出てきてくれない。空き家かと思ったが、家の中からは音がする。
しばらくして出てきたのは若い女性。
「早くしないと火の手がここまで来てしまいます!」
八十八が必死に訴える。
途端、女性はうつむいて、目を伏せた。
そして、小さな声で呟いた。その声は微かに震えを帯びている。
「逃げたいけど逃げられないんです……。」
彼女の目線の先には包帯を巻かれた右足があった。
「骨、折っちゃって……。」
今日は風が強い。
町火消が家を壊していっても、間に合わないだろう。
だからこそ、この人を見捨てるわけには行かない。
「じゃあ、僕の背中に乗ってください。」
八十八は逃げましょう、一緒に、と付け加えて、白い歯をこぼした。
そして、彼女をおぶって駆け出した。
曙色の下、部下のその後ろ姿は、花織にはとても輝いて見えた。
八十八は一度だけこちらを振り返ったが、それからはもう、後ろ姿しか見えなかった。
彼は必死に駆けていった。ただ前だけを向いて。