噎せかえる程に甘いその香りは
長谷川課長らしくない動揺の素振りに怪訝な物を覚えつつ、その原因は直ぐに推測が付いた。


格好良くて、性格も良くて、仕事も出来る長谷川課長がモテナイ筈はない。

彼にトキメク女性は数知れず―――されど、未だかつて一人たりともその心を射止めた者はいない。

人当たりは良いし、誰隔てなく優しい人だけれど、彼はいつだって最後の一歩を踏みこませないようなバリアーを張っている。


彼には忘れられない人がいるから。


結婚を目前に控え交通事故で亡くなってしまった最愛の女性。

美人で気さくで聡明で。

長谷川課長は彼女を心から愛していて、傍目にも美男美女のお似合いのカップルだったと言う。

直接本人が言った訳ではないらしいけど、恋人を作らないのはその彼女を引き摺っているからだ……と言うのがまことしやかに流れている噂だった。


給湯室に広がっていくコーヒーの香り。


『……その香り……』


彼が言った香りが、今更なんの特筆すべきもないコーヒーの香りではないのだとしたら、思い当たる節は一つだけ。



それに気付いた私は思い切って賭けに出た。


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