噎せかえる程に甘いその香りは
抱えていたファイルをぎゅっと握りただひたすらに前に向かって足を動かす。
フロアの角を曲がった所で思いもかけない声に呼びとめられた。
「仄。」
爽やかな笑顔で手を上げる彼に思わず足を止めてしまったけれど、私ははっとして周囲を見回した。
主要部所が入っていないこのフロアは人が跋扈している訳じゃないけれど、私や先ほど葵さんと擦れ違ったように移動経路に使う者も多く全く人が通らない訳じゃない。
一先ず今は居なかったけれど。
「大丈夫だよ。俺だってちゃんと確認してる。仄は心配性だな。」
「副社は危機感に乏し過ぎなんです。何処で誰に聞かれてるとも限らないんだからもう少し慎重にして下さい。」
声を顰めて詰ってみたものの、相手からは「はいはい」と悪びれない返事しかなくて、私は溜息を零す。
視線を反らしていた私は頭を撫でる大きな掌の感触に顔を戻した。
「どうした?表情が暗いな。何か悩み事か?」
何かあるなら言ってごらん、と促す瞳から視線を反らし首を振った。
「いえ……大丈夫です。」
出来るならば葵さんを助けて欲しい。
貴方なら出来る筈。
だけどそんな筋違いのお願いをする訳にもいかず、曖昧にはぐらかす。
そんな私をじっと見詰めていた副社長は、唐突に長身を屈めた。
え…っ。な、なに?
思わぬ彼の行動に驚いて固まる私を余所に、副社長は私の首筋近くにまで寄せた顔を直ぐに引き戻して「やっぱり」と小首を傾げる。
「仄、香水してないんだね。」
「あ……。」