噎せかえる程に甘いその香りは
引っ込み思案で我ながら内気な私がどれほど大胆な事をしているのかと思いながら。


ほんの一時でもイイ。

ほんの少しでもイイ。

彼にほんの少しでも近づけるのならば。

―――悪い女にだってなる。




普段会社で見るよりずっとあどけなく見える寝顔にそっと手を伸ばす。

だけどそれが彼のぬくもりを知る寸前、手はピタリと動きを止めた。


「………ごめん…………香澄……」

香澄

その名に私の心臓が鋭く軋む。

泣きだしたいのをグッと堪え、私はそっとバスルームへ向かった。



『ゴメンな…水守』


初めて彼と関係を持った次の朝、彼は私に謝った。

私を彼女の代わりにしてしまった事に。

そんなの分かっていて私から誘った事なのに。

身代わりという事実を突きつけられて確かに切なくはあったけど、私を気遣ってくれる事が嬉しかった。

…なのに。

一年経った今でも彼の心を占めるのは香澄さん。

一年前は私に謝ってくれたのに、この期に及んでは私に対する罪悪感より、亡くなった香澄さんを裏切っている罪悪感の方が強いのね……


熱いシャワーの礫に目から溢れた物を洗い流す。

きゅっとコックを捻った私は鏡の中の自分を見据えた。


感傷なんて捨ててしまえ。

彼の心が私になくったって傍にいられるならば構わない。

罪悪感だって呑みこんで悪い女になるって、そう決めたでしょう?


バスタオルを体に巻きつけた格好で洗面所に立った。

化粧ポーチから小さな瓶を取り出し、それをほんの一滴手首に落とし、両手首と首筋に丹念に塗り込めて行く。

上品に甘い香り。

これが誰にも射止める事の出来なかった彼を惑わす魔法。

彼の最愛の彼女、香澄さんに成り替わる為の―――…


中身の少なくなってしまった小瓶を握り、そっと溜息を吐く。



……そろそろまたアノ人に頼まなくっちゃ。


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