噎せかえる程に甘いその香りは
―――仄。
久しぶりに見る仄は相変わらず感情を露わに表に出す訳じゃなかったけれど、少なからず彼女を知っている俺からすれば、随分と精彩に欠いた暗い表情をして見えた。
俺に気付いた彼女は僅かに顔を歪め、視線を外し小さく会釈をした。
会社での極普通の対応だけど。
他人行儀なその態度に言い得ない不安が湧く。
ここに田中が居たからその態度なんだよな?
うん。田中がいなきゃきっと…
そんな言葉で自分を宥めてみるものの不安は一向に収まらない。
いっそ後の事なんてどうでもいいから、この場で彼女を掴んで抱きしめたい。
言い訳を奏でる彼女の唇をキスで塞いで、力尽くでも自分の物にしてしまいたい。
そんな不埒な事を考えながら彼女と擦れ違う。
「いやぁ~、出がけに水守さんに会うなんて幸先いいなぁ~。」
彼女の前ではシレッとしてた田中が行き過ぎた所でへらへらとそんなことを言うもんだから俺の不安と不満が劇的に加速した。
そうなんだよな。
彼女自身が迂闊に声を掛けにくい雰囲気を纏っていて、挙句に噂相手が副社長だから表だって言い寄られてはいないけど、密かにも彼女を注目している野郎は多い。
うかうかしてたら副社長じゃなくて他の奴に掻っ攫われそうだ。
ほくほくとした田中の顔が忌々しくて、「彼女は俺ンのだからそんな顔で見んな!」と頭の一発でも叩いてやりたい心境だ。
や…正確にはまだ彼女は俺のものじゃないけど。
あーヤバイ…
途端に気が気じゃなくなった。
「悪いっ、田中。忘れ物した。追いつくから先行っててくれ。」
「え?あ、はい。分かりました。」
きょとんとしたまま反射的にそう応えた田中を置き去りに俺は踵を返して今来た廊下を駆けだした。