イマノソラニン


春、私は彼に何も言わず、あの場所から去った。
彼に再会したのは、ついこの間。
私がどうしても、彼に会いたくて。
見かけた彼に、声をかけずにはいられなかった。

数秒止まったあと、「あっ、、」と言った彼。
もう、忘れてしまっているのかな、と悲しくなった。
毎週会うこともなくなったんだし、忘れてしまっていたとしても、何も文句は言えまい。
「久しぶり」そう言った私の顔が、何時もより少し可愛かったとしたら、嬉しい。
一重まぶたが二重になって、丸顔も少し痩けていたなら。
あ、可愛くなったかも、って少しでも思えてもらえてたら嬉しい。
そんな気持ちだった。
たった2、3言、言葉を交わしただけだった。
大好きだと思った。
好きです、って言いそうになった。
私はそんなに、度胸がなかった。




あの時私があの場所を離れなかったら。
何か変わっていたのだろうか。
何も変わっていなかっただろうか。
貴方の目の前に私がいて、
それでも貴方の瞳に私は映っただろうか?

私は彼に対して、「友達」という感情を表し続けて、
私は彼に対して、「愛情」を隠し続けて。
いつしか自然と別れが訪れて、
どちらからともなく、忘れていくのだろうか。

無邪気に笑う顔が好きだった。
柔らかそうな髪に触れたかった。
メガネよりコンタクトの方がかっこよかった。
ふと荷物を持ってくれるのが嬉しかった。
たまに面白いことを言うのが楽しみだった。
2人だけで笑いあうと、ドキドキした。
全部、好きだった。
何も残すことなく、好きだった。


少しの風を巻き起こした影が、
私の横を過ぎ去って行く。
学ラン姿の何処かの誰かは、
ものすごく彼に似ていた。
こんなところにいるはずもないのに、
絶対彼だと思った。
横にいる友達が話すのも気にせずに、
目で彼を追い続けた。
身体で彼を追いかける勇気はなかった。

人混みに消えて行った彼みたいな誰か。
考えてみれば、私の記憶にいる彼は、
随分前のもので。
きっと今の彼は、今見た彼みたいな誰かとは似ても似つかない。
そう思ったら、私のことを忘れそうな彼を、私は責められないと思った。


季節は冬。
彼みたいな誰かの巻き起こした風に揺らいだマフラーを整える。
忘れなきゃいけないと思った。
彼に似た知らない誰かを見ただけで、
どうしようもなく、高鳴る胸に、
見て見ぬ振りをした。

季節は冬で、吐く息は白い。




〈End〉
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