イマノソラニン


馬鹿みたいだ、と思った。
なんであんな彼のことを好きになったんだろう、と思った。

ヘラヘラと愛想を振りまく彼を見て、泣きそうになった。
彼にもうついて行きたいとは思ってなかった。
それでも足は一歩、二歩と前に出た。
気持ちとか関係なく、勝手に踏み出した一歩だった。
いつもの癖だった。
先を歩いて、私の方を振り返ってもくれない彼の後に、ぴったりとくっついて、離れないように、彼が離れていかないように、拘束していたのは私の方。
愛していたのだって、私だけ。

ごめんね、呟いたら、涙が零れた。
所詮私と彼は、客と演者。
それ以上でも以下でもなかったんだ。
フレットを押さえる彼の左手が好きだった。
ピックを握る彼の右手をずっと掴んだままだった。
忘れていた。
こんなに強く握っていたことを。
ごめんね、痛かったよね。


今から考えてみれば、
なんの気持ちもなく、一線を越えたあの夜から、
罪を償うみたいに私からはチケット代を取らなかった彼。
特別扱いされてる、と喜んでいたバカな私。
私の存在がどんどん重くなっていったことに気づかなかった。


まだ彼のバンドまで一バンドほどあった。
彼は視界の端に私を入れながら、
何も声をかけず、楽屋へ入って行った。


そっと地下から上がると、もう夜になっていて、寒い風が吹き込んだ。
近くのコンビニで、彼の好きなライムミントのガムを買った。
「食うか?」と言われて、いつかもらったことのあるガム。
いつも食べているだけあって、確かに彼の味がした。
幸せな気分になっていたけど、ライムミントの味はただ酸っぱくてちょっと苦いだけだった。

さっきもらったプレスの紙。
汚い字で彼のバンドの名前が書いてある。
出会ったときは、必ず売れると信じていた。
この長くてちょっと痛い名前を、数年後には日本全国の人が知っているんだろうな、と思っていた。

「私売れるまえから知ってるから。」って、我が物顔で友達にいい回る私が想像できた。
「メンバーの人ともライブの時は喋るんだ」なんて言って、「なにそれお洒落だね。」とか、「かっこいいね」何て言われて、嬉しそうにしている私の顔が、細部まで想像できた。
売れないバンドのギターをやっている彼氏がいる、なんて友達には言えなくて、最近一部上場したITの会社に勤めてる30歳前半の彼氏がいて、結婚も考えてる、なんてホラを吹く現在の私とはかけ離れている。

私が好きで、彼も好きな音楽をやっていてくれるなら、私が彼を将来的に養ってもいいと思っていた。
現実は厳しかった。
彼のバンドのまどろっこしく長い名前は、覚えにくくて、プレスにも書きにくい。
何度も何度もLIVEをするたび、プレスだけが溜まっていった。
彼らのホームページはいつまでもFC2にあって、18歳以下の子供に見られることはなかった。

彼は歌は歌ってなかったけれど、
彼が運転するときや、散歩している時、私の作った料理をつまみ食いしてるとき、
口ずさむ、彼のハモりパートだけの部分的な曲も好きだった。
不協和音みたいな音だけど、必ず完成される。
彼だけでは完成しないけど、然るべきものが加わった時、完成される。
そんなもう一つの存在を感じる、包容力があるみたいな彼の歌が好きだった。

きっと彼は私のことを好きじゃない。
私のことを最初から、好きじゃない。
だけど私はいつの間にか、好きが募って、愛になって、何も見えなくなって、私のことを見ていない彼も見えなくなって。

聞いたことがある、恋人同士は、
どちらかの気持ちが大きくなりすぎると上手くいかないって。

元から気持ちがなかった割には、
上手くいった方なのかもしれない。

「さようなら。」
ライブハウスのバーカウンターでもらったコースターに大切に一文字ずつ書いた。
何故だか満たされたような気持ちになった。

「ごめんね。」
書こうとして、やめた。
書いてしまったら、また戻ってきてしまうような気がした。
私の独りよがりのこの空間に。

コンビニのビニール袋に入れて、そっと会場を出た。
ちょうど彼のバンドが出てくる時だった。
きっと出て行く私の背中を、彼は見ていない。
彼は私のいない未来しか見ていない。
すきガラスみたいなところから少し中を覗いたら、彼らはあまりにもキラキラしていて、あまりにも立派に見えた。
いつも近いところから見ていたから、知らなかった。
立つ場所を変えれば、こんなに違って見えるんだ。
いつか売れてくれればいいな、と思った。
テレビでもラジオでも雑誌でも、見ない日がないくらい、彼らのバンドが有名になればいいと思った。
それで私が今日のことを後悔すればいいと思った。
一生彼のことを忘れられなければいいと思った。

「これ、渡しておいてください。」
彼のバンドと彼の名前を受付にいた女性に告げた。
私の名前は言わなかった。
わからなかったらわからなかったでいいと思った。



外に出てみると、さっきより寒くなっているような気がした。
イヤホンをして、ウォークマンを点ける。
再生中の欄には、いつものように彼のバンドの名前。
違う人の曲にしようと思ったけど、なんだかそれも違う気がして、
彼のバンドの曲の中で、いっっちばん売れなかった、いっっっちばん切ない失恋ソングを再生した。
クサい言葉しか出てこないこの曲。
最初聞いた時に鼻で笑ってしまったことを思い出した。
あの頃に戻りたいと思った。
視界が少しだけ曇っていた。

いつか私の曲を書いてくれる、と言った、
彼。
それを純粋に喜んだ私。
どっちももういない。

月明かりが綺麗で、彼の横顔を思い出した。




〈End〉
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