イマノソラニン
ドラムのカウントが聞こえて、その曲が始まると、その曲の題名や演奏するアーティスト名より先に、彼のことを思い出して、どこかその音が聞こえないところに行きたくて、走った。

横を向くと、もうすぐ電車が来る表示が見える。
飛び込んで死んでしまいたい私より、死ぬことを怖れる私の方がずっと大きい。
落ち着いてから聞き始めたこの曲は、彼を好きな私が見えてくるような曲。
こんな恋愛をして情けない私。
曲の向こう側から、今の私がやってくるような。

電車がホームに入ってくると同時に、凄まじい突風が吹いてきた。
聞こえるボーカルの人も、大サビに向けて、盛り上げるように歌っている。
私の目の前を、電車が通り過ぎる。


最後に彼に会ったのは、もう3日前。
私が彼に会えるのは、一ヶ月で最高2回。
しかも、話せるかわからない。
私はもう2ヶ月話していない。

それでも、彼は私を見て笑ってくれる。
見せ場の前に、私を見て笑う。
「俺のこと好きなんだろ?」
って言ってるみたいに思えるちょっとの笑顔で。
だから私は3回に2回は目を逸らす。
彼に、少しでも気にしてもらえるように。

彼の実生活のことを、わたしはほとんどしらない。
今は禁煙中だとか、今日はあそこでLIVEがあるとか、そんなことしか知らない。
彼女がいるのかもしれない。
好きな女性がいるのかもしれない。
物販のあの子と付き合ってるのかもしれない。
私より歳が近そうなあのお客さんと結婚を考えてるのかもしれない。

そんな重要なことは、何も知らない。

それでも今は信じてみたい気持ちでいる。
いつか、彼が私だけに笑いかけてくれるのを、信じてみたい気持ちで。

私と彼の間には、大きくて分厚い壁がある。
きっとそれが無くなることはないのだと思う。
だけど、「きっといつか無くなるよね?」って思いながら、私はいつもLIVEに向かう。


「もっと現実味のある恋をしろ」とか、「もっと年齢の近い人のことを好きになれ」とか、心配する友達に言われたりもする。
私もそう思う。
彼と私とは、立ってる場所だって違うし、年齢だって大きく違う。
彼に会わない一ヶ月の間に、いつも、もっと好きな人を見つけられるように、彼のことを好きじゃなくなれるように、考えている。
でも、ある時言われた。
「それっていつもその人のことを考えてる、ってことじゃない?」
その後に、
「それじゃあ、一ヶ月離れてる意味ないよ。」
って。
彼から離れようとする間、私は方向を見間違えていて、彼は近づいてきてくれやしないのに、私は彼に近づきたくて、またあの大きくて分厚い壁に阻まれているだけだった。
毎月毎月、そんな馬鹿げたことをしていた。
せっかく彼と会う機会は少ないのに、彼の事ばかり考えていて、どんどん好きになって。
こんな情けない恋愛早く終わらしたいと願っているのに、恋愛を始めるのはいつも私一人で、終わらせるのも私一人で、なのに私はこんな頼りなくて、終わらせられるわけないよ。

彼の誕生日にあげた、あるブランドのネクタイ。
そのブランドに今、ハマっていると言った彼。
そのネクタイを締めて、誰に会いに行くのだろう。
俺はこのブランドのネクタイを締めるんだ、って、見栄を張りたいのはいつも誰だろう。
このブランド私も好きだよ、って言われて、彼が照れるのは、いつも誰だろう。
きっとステージの上の彼を見つめる女性の中で、一番彼を想っているのは私なのに。
彼がステージの上から探しているのは、いつも誰だろう。
彼がステージの上から見つけて嬉しいのはいつも誰だろう。
彼がステージの上からいないって知って悲しむのはいつも誰だろう。
彼がステージの上にいる時も、それ以外も、ずっと考えているのは、誰のことだろう。

離れている分だけ、想いは募って、偏った想像をして、泣きそうになる。

彼のことを忘れたいと思ってるのは私じゃなくて、私は、彼のことをいつも考えていたいんだって、本当に気づいたのはいつだろう。

はっきりとした現実が突きつけられるまで、彼を想っていたいと願うのは私で、本当は情けない恋愛だなんて思ってないのは私で、彼を好きになってよかったと思うことの方が多い情けない女はいつも私だ。

ステージの上の彼から、私まで、だいたい5メートル。
この距離の中に、私の想いは入りきらないくらいあって、彼からの気持ちはきっと少しもない。
完璧な片想いだと思う。
それでも、私は幸せなんだと思いたい。
彼が私のことを少しでも見てくれる、あの数秒だけは、私は確実に世界で一番幸せな女だから。

私ははっきりした事実が彼から伝えられるまで、この距離を少しでも縮められるように、みっともなくても、足掻いて足掻いて、息が切れても、走り続けたいと思う。
それが私の恋。
例え他の人から、馬鹿だとか、情けないとか、嘲笑われたりしたとしても。







私は今日も笑う。
彼に、少しでも可愛いと思ってもらえるように。


〈End〉
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