イマノソラニン
2
平日の夜。
微妙に混み合った電車。
この電車に乗るときは、必ずヘッドホンをして、音楽をかける。
つり革につかまって、椅子に座って、固く目を閉じる。
そうしていないと、あの頃の私たちが見えてきてしまうから。
少し前までこの場所に一緒にいた、あの人のことを思い出してしまうから。

「ごめんね」と言って、
去っていった彼。
その顔は本当に申し訳なさそうで、怒りや悲しみが綯い交ぜになっていた私にとっては、満足する表情と言葉だったはずなのに。
どうしてだろう、欲しかった言葉はこれじゃないと思った。
終止符を打った彼の「ごめんね」は、私の中で「さよなら」に変換されて、身体中を駆け巡って溶け出した。

「もういいよ。」
そう言ったのだけ覚えている。
真っ白な頭で。

彼と私はずっと一緒のはずだった。
別に約束していたわけじゃないけど、
彼もきっとそう思っていたはずだった。
余りにも長い間一緒にいた私たちは、お互いを分かり合っていたし、互いに対する不満や苛立ちもいつの間にか仕方ないと割り切れるようになっていた。

確かに炎の燃え上がるような恋じゃないかもしれない。
だけど今更、誰か他の人を見つけて、最初の段階からやり直し、という気力は私には残っていなかった。
というか、今のこの居心地の良い暮らしと比較した時に、そんな面倒な方法をとるほど、私はもう若くないのだ。

周りの友達たちは、やたらと結婚を急いでいるようだけど、特に結婚願望があるじゃないし、子供も欲しいわけじゃない。
プロポーズされないのなら、一生このままでもいいと思っていた。

だけど。
だけど、彼は違った。
終わりの存在は確かにずっと隣にいた。
私たちの命がいつか終わることが表すように、いつか終わる人生を生きる私たちの日々に、終わりがこない物事はないのだ。

きっとそれを最初に悟った人が、婚姻届というものを作ったのだろうと思った。
何事にも終わりがくるなんて悲しすぎるから、寂しすぎるから。
2人の人がずっと一緒に居られるように。
期限なく、生きる限り。
それを知っていたら、私も結婚したいとか思ったのにな、フリーズした脳内の端っこで、そんなくだらないことを考えていた。


きっと終わりを想像できなかったわけじゃない。
終わりを想像しなかっただけだ。
当たり前になりすぎて。
彼がいて、私がいて、地球が回る、この日々が当たり前になりすぎて。


私が欲しかったのは、「ごめんね」じゃなくて、「ありがとう」で。
もっと欲しかったのは、「ずっと一緒にいよう」って、確証のない言葉でよかった。約束だった。

ごめんね、って謝られたら、私が彼を愛してないみたいだった。
ありがとう、って言われたら、彼と過ごしたこの数年が確かにあったんだ、と、この数年の間は確かに幸せだったんだ、と思えたような気がする。
謝罪の言葉を口にしない彼に、私は当たり散らしたかもしれないけど、何も文句を言わないで受け入れて、後からなんやかんやと思いを巡らすより、よっぽど健全だと思ったし、感情を溜め込むより、早く前を向けるようになる気がした。

本当はずっと一緒に居たかったけど、もうそれは叶わぬ夢。

私はただ歩いて行く。
彼も彼のいた日常も、誰かと歩む日々の暖かさも、全部失った私。
でも、前を向けるものなら前を向こうと思う。
いつか、彼よりも愛せる人が現れたらいいと思う。
私ももう歳だし、ゆっくりしている暇は確かにないけど、やっぱり私は彼を想い続けられるほど若くはないし、けれど、すぐに立ち直れるほど浅くはなかったこの傷。

車内アナウンスが、私の降りる駅名を告げる。
電車の中で声を潜めて話す私たちの声が、聞こえ確かに気がしたけど、私たちはもういないんだ。
ドアから一歩降りると、冬の風が吹き付けた。


幸せを当たり前だと思ってた、
馬鹿な過去の私はもういない。
欲しい言葉をくれなくて、
他に好きな人を作った彼ももういない。
確かに愛し合っていた私たちは、もういない。
もういないんだ。
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