イマノソラニン
私が叩くこの手を、いつかの彼はそっと握りしめてくれた。
高そうで煌びやかな服を着る彼と彼の彼女。
そんな二人を祝福するために、私のこの手はあったはずないのに。
彼は父の部下で、私は彼にとって、上司の娘だった。
元々外で飲むのが好きではない父は、気に入った部下のことを、家に招く。
別に母もその件について不満を言っている様子はない。
いつ帰ってくるかわからない、どこにいるかわからない旦那を待つより、目の届く範囲でやってくれた方が色々と都合がよいのだろう。
そんな父に連れられてきたのが、彼だった。
私はその時、中学3年生。
最初はどうとも思ってなかった。
[ああ、また誰か呼んだんだ。]それだけ。
母に、リビングに瓶ビールを届けるように言われて、リビングに持って行くと、ちょうど父はいなくて、彼と二人きりになった。
沈黙に耐えかねて、「父って会社ではどんな感じなんですか?」
と聞いてみると、
「え?あ、お父さん?うん、あのね、お父さんは、誰からも、、」
最初は戸惑っていたもののの、勢いよくしゃべりだした彼。
他人のことだというのに、父の実績を自分のことのように嬉しそうに言う彼。
尊敬してる、と言った彼の目は輝いて見えた。
これだけ後輩から信頼されてる父が誇らしかったのもさる事ながら、面白いくらい真っ直ぐな彼に興味が出た。
「ありがとうございます。なんか、嬉しいです。」
そう言って笑うと、
「君も部長の才能を継いでいるんだ。」
そう言って手を握られた。
突然のことに驚いた。
「もっと自信を持って。」
ハッとした。
高校受験間近でピリピリしていた私のことを、父が彼に言ったのだろうか。
私の心はささくれ立っていたはずなのに、真っ直ぐな彼の言葉を、真っ直ぐに受け入れることができた。
「ありがとうございます。」
私は彼のことが好きなんだ、と思った。
頑張って距離を詰めてきたはずだった。
ただでさえ年の離れた私たちが、本当に付き合えることなんてあるんだろうか、って、何度も不安に思った。
だけど不安に思うより先に、彼を想う気持ちがあった。
あの頃中学生だった私も、大学生になった。
距離を詰めてきた成果は、彼の結婚式に招待される、という余りにも虚しいものだった。
きっと私が隣に座るはずだったのに、
少なくとも私の想像では、
彼の隣にいるのは私だったのに。
そう心で不満を言ったけど、言っても届かないこの気持ちから早く目を背けたくて、
そっと蓋をした。
新婦は、綺麗で、胸を締め付けるほど幸せそうな笑みを浮かべていた。
キラキラした光に目が慣れなくて、
うっすらと涙が広がった。
あの頃の私に言ってあげたい。
彼は私のものにはならないよ、って。
だけど私は後悔してないよ、って。
彼を好きなことは、誇らしいと思う。
私を真っ直ぐに見てくれた彼を好きになったことを、忘れられないし、忘れたいとも今は思わない。
彼に振り向いてもらうために、必死で綺麗になろうとした。
彼が好きだという音楽も聞いたし、話を合わせるために難しい経済学の本も読んだ。
何度も気持ちを伝えようとした。
何度も、気持ちを伝えようとして、
できなかった。
[彼の為にした努力は、必ず私の身になってる。]
今はそう自分に言い聞かせて、また一歩歩き出すしかできない。
「ほら、行くぞ。」
今は自由時間のようになっていて、招待客は食事を食べていたり、新郎新婦のところにお祝いを言いに行ったり、一緒に写真を撮ったりしている。
「うん。」
そう言って立ち上がる。
私と父も、「お祝い」を言いに行くのだ。
心の中ではおめでたいなんて少しも思ってない。
そんな、上辺だけの「お祝い」を。
「本日はお招きいただきありがとうございます。」
「こっちこそありがとうね、来てくれて嬉しい。」
そう言って笑う彼。
私がどんなにこの場で傷ついたって、来てよかったと思った。
あの日私の手を強く握った彼の手は、
今はもう私の手に温もりさえ残していない。
左手薬指に輝く指輪をはめた、その手に、そっと重ねられている。
前を向ければいいと思う。
あわよくば、彼みたいに、人の目を真っ直ぐ見られるようになれたらいいと思う。
あの日の彼はもういないんだ。
彼しか見えてなかった私ももういない。
もういないんだ。