花の下に死す
十一、西へ行く……
待賢門院・藤原璋子(たいけんもんいん ふじわらのたまこ)は、佐藤義清の出家から程なくして落飾(らくしょく;髪を下ろす)。
それから数年後の久安元年(1145年)8月22日、崩御。
鳥羽院は危篤に陥った璋子を見舞い、看取ったと言われている。
これは死は穢れあるものとみなされていた当時としては、異例のことだった。
璋子臨終の際に鳥羽院は、仏具を打ち鳴らし泣き叫んだという。
白河院と通じたという璋子の過去を受け入れられず、終始冷たい態度を繰り返した鳥羽院だったが……。
報われないとは知りながらも璋子を愛していたことに気づいたのは、璋子の死の間際だったのかもしれない。
それから数年後の久安元年(1145年)8月22日、崩御。
鳥羽院は危篤に陥った璋子を見舞い、看取ったと言われている。
これは死は穢れあるものとみなされていた当時としては、異例のことだった。
璋子臨終の際に鳥羽院は、仏具を打ち鳴らし泣き叫んだという。
白河院と通じたという璋子の過去を受け入れられず、終始冷たい態度を繰り返した鳥羽院だったが……。
報われないとは知りながらも璋子を愛していたことに気づいたのは、璋子の死の間際だったのかもしれない。