天翔ける君
夜色の鬼
恵都が目を覚ましたのは、夜鬼の屋敷らしかった。
起きるなり風呂に入るように言われ、今に至る。
恵都は檜で作られているらしい湯船に浸かって、長いため息を吐いた。
「千鬼の匂いを落としてこい」と夜鬼は言った。
もしも千鬼の移り香がしているなら、恵都は落としたくないと思った。
千鬼の微かに甘い香りは恵都の好みで、その匂いを嗅ぎたくて必要以上に近づいてしまう時もあるくらいだ。
ただでさえ不安な今、香りだけでも千鬼に近くにいてほしい。
恵都本人に分からなくても、それでもそんな気がしてうれしかった。
しかし脱衣所に押し込められて、恵都は仕方なく夜鬼に従ったのだった。
どうやら、すぐに命を取られるということはないらしい。
それは恵都にとってもちろんいいことなのだが、そうなるとますます夜鬼の目的が分からない。
「千鬼」
恵都は自分にだけ聞こえるくらいの声でつぶやいた。
途端に胸が締め付けられる。
勝手に涙がこぼれて、恵都は慌てて顔をゆすいだ。
ぽろぽろと止めどなく、すぐにあきらめて、あふれるままにした。