恋するキオク




「どうもありがとう。素敵ね」



曲を弾き終わると同時に、腕全体の力が抜けた。

もう楽譜を閉じることさえやっとだ。


オレがそのままぐったりと椅子に座り続けてると、若く見えながらも実際は年齢を重ねていそうなその人は

オレの後ろにやって来ると、その肩に触れてきた。



「……!」


「動かないで。大丈夫だから…」



防音設備が整った部屋はとても静かで。

スッと肩から背骨までを撫でられると、それが傷んだ箇所にはなぜか心地よかった。

不思議と、気持ちまで和らぐ。



「かなり痛むみたいね…」



この人、オレのこと知ってるのか。

なにげにその顔を見上げると、目元にあるうっすらとしたシワは優しい人柄を表すようで。

なんとなく、気まで許してしまいそうになった。



「このままでも構わないって言うならいいけど、もし、もっと自由に弾きたいと望むなら、方法はあるのよ」



囁くように告げられる声。

その言葉に反応して、オレは何かにすがるように息を飲む。


それはつまり…






話を終えると、オレは元来た廊下を通り玄関まで送り届けられた。

そしてそこには、すでに祖父ちゃんが背を向けて待っている。



「話は終わったのか」


「ええ、伝えることは伝えたわ。ね?」



祖父ちゃんと軽く言葉を交わしたその人に頭を下げ、オレはまた車に乗って聖音を後にした。

視界に流れる並木道。

緩やかに動くシートにただ無言で座り、さっきの話を思い出す。



手術を受けないかと言われた。

ただし海外で。

神経の細かな部分を治療する必要があるから、日本じゃダメだと言うんだ。

しかも最低1ヶ月のリハビリ付き。



治せるなら治したい。

制限されていた自分の中の音楽を、自由に出せるならどんなにいいだろう。



でも、今野崎と離れるのには不安があった。

省吾の考えも分からない今、野崎を残して行くのは…



< 134 / 276 >

この作品をシェア

pagetop