透明探し
1.出口にならない入口
彼女に出会ったと言う事実は、私の脳の小さなシワの一つとして克明に刻まれた、記憶に新しい事案である。

私の日課である仕事上がりの小さなひと時は、毎日の午後9時頃、小洒落たバーの“空の色”にて執り行われる。
時折常連の人々を集めたイベントのような、パーティのような催しをしめやかに行うこのバーは、静かなクラッシックが店内に響き渡り白と茶のイメージカラーが心を落ち着かせてくれるような、バーと言うよりは喫茶店のような、そんな古風かつオーソドックスな雰囲気の良い場所だ。

店内には珈琲の香りが漂い、それも気分を落ち着かせる要因となる一つであろう。
そして質素ではあるが決して失望させない堅実な味の料理、長時間の読書にも耐えうる絶妙な客の入り、客を程よく気に掛け、しかし邪魔にならないよう計らえる陽気なマスター。
低いわけでは無いが妙に屈折して捉えどころの無い私のコミュニティ能力は、この静かで暖かな空間にすっぽりとハマり、それはもうあしげく通うに至った訳だ。

だがその日の“空の色”は、雨もようの下、それでも休息を求めて訪れた私を常例通り容易く収納し、しかし同時に異質も内包していた。

外の雨音は店内のクラッシックに柔らかくかき消されるが、そのクラッシックは無音に近い程度で静寂をもたらす。
私がその異質に気付くまでに時間を要したのは、その異質がえらく希薄な存在であり、特別な行動をする事も無く店内の一番隅の席で静かに読書を嗜み、ページをめくると言う所作からすら音を徹底的に排除していたからである。
「飯村」、と、可愛らしいが実に澄んで凛とした声がマスターの名を呼び、同時に私の鼓膜を叩いた時にようやく、入店時に一度店内を見回したハズである私はその異質の存在に気付いた。

それが、彼女である。
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