あなたと恋の始め方①
「はい」


 返事はしながらもこれからのことを考えると溜め息が零れてしまいそうになる。中垣先輩のペースとなると想像を絶するくらいの忙しさが待っているだろう。それに…今日の高見主任のフランス留学の話も気になっていた。研究所で一番の頭脳の持ち主である中垣先輩はフランス留学の資格は一番だと思うのに今日の話からすると私が選ばれる可能性が強い気がした。


「じゃ、さっきまでの研究結果の資料を纏めて置いてくれ。それが終わったら今日はもういいから」


 明日からの残業の日々を前にしての最後の早帰りになるかもしれない。折戸さんと一緒に食事に行くにはちょうどいいかもしれない。私は自分の席に戻るとパソコンで資料の整理を始めた。研究結果の数値を打ち込んでいくだけだから、神経をとがらせることではない。


 しばらくすると私はテンキーの上に指を置いてそのまま止まってしまっていた。頭を過るのは小林さんの無邪気に笑う笑顔だった。思い出すだけでフッと胸の奥が温かくなる。


 私と小林さんはあまりにも曖昧な関係だと思う。空港で『好き』と言ってくれたのに、恋愛の不得手な私はその返事もしないままに静岡研究所に来て、それからメールのやり取りをして、小林さんが静岡支社に転勤になって、一緒に食事に行ったり、買い物に行ったりもしている。


 一緒に居ると幸せだし、好きだと思う。


 多分、恋だとも思う。


 それなのに、自分の気持ちに素直になれずにズルズル今まで来てしまった。
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