清水坂下物語

茶漬け

修はその日上の空でネームを彫っていた。
『君子に言うべきかどうしよう。
吉川厚子のこと。もう5年になるのか』

5年前、銀閣寺での別れの事は、その晩すぐに話した。
修は隠し事がとてもできないたちなのだ。

祈りを込めて見送った厚子の美しい瞳と後姿が
まるで昨日のことのようによみがえる。

家に帰って君子の帰りを待つ。君子は半年前から
三条京阪にあるベラミという高級ナイトクラブで
アルバイトを始めた。インド帰りのアコちゃんが

ずっとホステスをしていたからだ。周に3日だが
その晩の夜食は修が作る。修の得意は焼き飯と
卵スープ。とも子は来年から小学校に入る。

もう6歳だ。ちゃんとお手伝いもするし明るく元気で
人見知りしない利発な子だ。男の子だと信じていたから、

どうしても負い目を感じる。仲良しの親子なのだが、
やはり男の子が欲しい。

「お前も弟が欲しいやろ?」
と聞くと。
「うん」

と素直に返事する。君子がかわいそうだ。もうこの話は
止めとこう。君子が帰って来た。12時を回っている。

「ただいま」
お酒の匂いがする。
「今日どこかの議員さん達の席について舞妓さんと一緒
だったわよ」

君子はいつもの関東弁で歯切れよく、ブーツを脱ぎながら
背中越しに話しかけてくる。とも子と修がお帰りという。

「おつかれさん。そう、それは良かったね。
おなかすいたろう、皆で早く食べよう」

「そうね、お待たせ。お疲れ様。いただきます」
「いただきます」
「おいしい。ほんとに修の焼き飯は上手よね」

もぐもぐと美味しそうにみんなで食べ始める。
「きょう、清水で驚いたことがあったよ」
「え、どうしたの?何?いいこと悪いこと?」

「どちらかというといいことかな」
「なによ?もったいぶっていないで言って」

「あの吉川厚子さん、憶えているだろ。赤ちゃん連れて
清水の店に来た。誰かがずっと立ってこちらを見つめて
いるんで、よく見たら厚子さんだ。伏見稲荷じゃなくて

清水の坂下に住んでいるらしい、赤ん坊とふたりで。
何か訳がありそうだったけど話す時間がなくて。近く
だから又来ると言ってた。少しやつれたみたいだったよ」

「そう、何か色々とあったのね」
「そうだと思う。今度会ったら内にも遊びにおいでと
言っとくけど」

「そうね、だけどこっちも大変だからね。5年前は皆
時間があって自由で華やかだったけど、今は何かと
重荷を抱えて大変なんじゃないの?」

「ああ、そうかもしれないね」
何かあまり気のない返事だった。ぎくしゃくとした夫婦
の間のことだから、前みたいにもろ手をあげて

エネルギッシュに気配りするだけのスタミナがなくなって
来たのかもしれない。

とも子とふたりだけのおしゃべりをしている。
もうどこにも修の居場所はなかった。
最後のお茶漬けを砂をかむ思いでかきこんだ。

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