はるのリベンジ
下関に帰ってすぐくらいの時、長州藩の不穏な動きを見逃さず、これを口実に、幕府は、再度、長州征伐をしようと企てた。
将軍家茂公の軍は大坂まで進み、京に入る。
孝明天皇に長州征伐の許可を得ようとした。
先生は、藩より名前を谷 潜蔵(たに せんぞう)と名前を改名させられた。
このおかげで、幕府から、反逆した先生達の出頭を求められたが、藩も行方不明ということでシラを切った。
幕府の問罪使の一行が、広島に11月6日に入り長州藩も入り、会談を始める。
もし、これで決別したら、幕府との戦になる。しかし、薩摩藩は、出兵を拒否した。
長州を、討つ理由が曖昧だからという理由だ。それに、他の藩も嫌がった。戦となると金が必要になるからだ。
実際、米の値段が、跳ね上がり、色んな所で、暴動が起きていた。
そして、桂様(木戸 貫治)を京に送り、今後の対策を、薩摩藩と会談させようとしたが、木戸様は、渋った。
以前、土佐の坂本様より、薩摩の西郷様と下関で会う約束をしたのに、14日ほど待ちぼうけになった挙げ句、下関には現れないという屈辱を味わっていた。
東行先生は、井上 聞多様とはかり、藩命を出させて、木戸様を京へ上らせた。しかし、藩の中でも、薩摩に良い印象を持っていない反対派を黙らせるため奇兵隊の三好 軍太郎様が同行した。
はる「先生が行かれたら良かったのでは?」
東行「くくくっ。こういうのは、俺は、苦手だからな。木戸や三好の方が、向いている。」
はる「先生だと喧嘩腰になるからですか?」
東行「良くわかってるな。」
そして、正規の文書は、交わせなかったようで、土佐の坂本様が書いた文書のみ手元にあるという少し心許ない結果となったようだが口約束はしたとのことだった。