元教え子は現上司
 瀬崎がキョトンとした顔でこっちを見ていることに気がついて、慌てて背を向ける。
「なんで、この番号」
「履歴書に書いてあるからに決まってるじゃないですか」
 小ばかにしたような言い方にも、反応する余裕が無い。心臓が早鐘を打つ。くち、乾いてる。

 携帯を握りしめながら、
「あの、採用の件なんだけ、なんですが」
 暁相手に敬語を使う、なんて信じられない。だけどハイ、と返す相手の声は落ち着いていて、偶然でもなんでも、これが現実なんだと思い知らされる。
 汗が耳とディスプレイの間でじわりと滲む。
「あの、大変ありがたいお話なんですが」
「まさか断るなんてしないよな?」
 ガラッと変わった口調。付き合っていたときの暁でもなく、今話していた口調ともちがう。
 面接の最後で見せた、冷たい声音。

「あなたみたいな年齢で正社員を探そうと思ったら、またどれだけ時間かかると思ってるんですか。選り好みしてる間にもっと歳とっていきますよ」
 冷笑交じりの声を呆然と聞いていた。目の前を、十六歳の暁がいくつも通り過ぎていく。笑いながら。

 これがあの暁? 
 ほんとうに?

「なんで」
 かすれて、ほとんど声になってない言葉だったけれど、相手には届いていたらしい。またクッと笑う声がする。

「あなたは元講師ですからね。ご自身でおっしゃってたじゃないですか、その経験を活かすことができると。我々もそう判断したんですよ。少しくらい歳がいっていても、現場に詳しい人がほしいんです」

 耳元で伝える声は、たしかに暁だったけれど、暁じゃなかった。資料室でそっとキスをした相手は、もういなかった。

 そっか、暁はもういないんだ。

 ふっと力が抜けるのを感じる。

 少女マンガを借してと笑った無邪気な暁。自分のために土下座しながら泣いた暁。あのときの暁はもう、どこにもいないんだ。

 だからなんだっていうの。頭の隅でささやく声がした。

 それなら私も、遠慮することはないじゃない。いいかげん八年前の感傷に浸ってないで、今月の家賃の心配をしなさいよ。

 毅然とした声で碧を諭すもう一人の自分の声。苦笑いが浮かんだ。こんなことを考えるあたり、私も歳をとったんだな、と思う。

 でも、そうだ。もうあの頃のままじゃない。暁の言うとおり、この歳じゃ就職活動だってままならない。
 暁はもう乗り越えてる。八年前のままじゃない。
 それなら。

「わかりました」
 自分でも驚くほど冷静な声が出た。

「御社で働かせていただきます」
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