元教え子は現上司
新しい場所で
「ここが事務室です」
長谷はそう言って扉を開いた。面接が面接だったからか、碧に向ける笑顔はどこかぎこちない。けれどそんなことに気がつく余裕はない。碧は肩に提げた鞄を握ると、少し緊張しながら後についていった。
広いフロアだった。塾の講師室よりも広い。入り口から奥に行くにつれて少しずつ横幅の狭くなるふしぎな形の間取りで、上から見るとちょうど三角形になる。向かい合って十人ずつくらいが座れるデスクには半分くらい人がいて、電話をしたりパソコンに向かったりしていた。
「コンサビは一番奥になりますね」
コンサビ? と繰り返しながらキョロキョロと辺りを見回す。首から社員証を提げた男女が数名、興味深げにこちらを見ていた。
「コンテンツサービス事業部の通称ですよ」
言いながら、長谷は奥のフロアへと碧を案内した。
三角形の形のフロアという認識はまちがってないようだ。入り口近くは十人ずつくらいの長いデスクになっていたのに、こちらはスペースが狭いからか、四人ずつが向かい合うくらいのスペースしかない。口の開いたダンボールがデスクの下にも上にも重ねられていて、人がいないのに圧迫感はある。
そう、いない。デスクにはだれもいなかった。
長谷がデスクの後ろにかけられたホワイトボードを振り返って、幼児のラクガキのような字を読み解く。
「あー、まだみんな来てないようですね」
碧を振り返って、とりなすように笑顔を作る。
「部署によってバラバラなんですけどね、コンサビは割合夜型なんで、特に用が無ければ昼前くらいにみんな出社するんですよ」
人事としてはね、早く来て早く帰ってほしいんですけど、と笑う。
用が無ければ、ね。
新人が来るのは、特別な用事じゃないってわけだ。
じろ、と無人のデスクを見やる。どのデスクの上にも書き殴られたコピー用紙の束やパンフレットや定規や電卓が散乱していて、来てるんだか来てないんだかの見分けがつきにくい。
「この間はすみませんでした」
長谷が少し小さな声で言う。めがねの両端に手をあてて、
「遠野、あ、ここのリーダーなんですが、あいつちょっと忙しいのか、ずいぶん失礼をしまして。普段あんな奴じゃないんですけどね」
はは、と力なく笑う。
「あんな形で面接が終わってしまったんで、正直ちょっと諦めてました。来てくれないかなって」
そりゃそうだろう。けどそれでも来たということは、仕事をもらえればどんな扱いをしてもノコノコ来る人間だと言ってるようなものなんだな、と今さらながら気がつく。事実なんだけど。
「私も、採用になると思いませんでした」
正直に言う。
長谷はめがねのツルを片手で抑えて、そっと笑った。
「そうですよね。いや、遠野がですね、非常にあなたを推してまして」
聞き間違いかとおもった。この間から何度も耳を疑う発言を聞いてるけど、今度こそ幻聴を聞いてしまったんだな、と。
なので、反応せず長谷の後ろのデスクで電話をしている男性社員の後ろ姿を眺めていた。あっちのデスクはラフな格好の人が多い。部署ごとにカラーが違うみたいだ。
「あの、久松さん?」
長谷がおずおずと声をかける。
「あ、はい」
「あの、本当にすみません。遠野が」
また腰を曲げて頭を下げる。さっきから何度目だろう。
「いえ、長谷さんの所為じゃないですし」
ぺこぺこ頭を下げる長谷を見ながら、穏やかな人だなぁと思う。人事がいい会社は優良企業ですよ、と瀬崎が言っていたのを思い出す。ということはこの会社も、けっこう期待していいのかもしれない。
「信じてもえらえないかもしれませんが、あなたを採用してほしいと私に言ってきたのは、遠野なんです」
長谷はそう言って微笑んだ。
「帰ってもらえますか、なんて言うから驚いたんだんですが、真意としてはね、これ以上聞かなくてもわかった、ということだったそうですよ。たしかに僕も採用を担当していてね、これは良いな、と思う人はすぐわかるんで」
逆にダメかな、と思う人もすぐわかるんですけどねぇ、と長谷は笑う。碧はぼうっとその言葉を聞いていた。
ほんとに? あの態度や言い方の裏に、そんな思いがあった?
いやいや無いでしょ、と心の内ですぐに却下する。
いくらなんでも、そんなわけない。暁との間にあったことを抜きにしても、あの態度で実は合格だと思ってましたなんて言われても、信じられない。
でもそれじゃ、どうして自分は採用されたんだろう。長谷の言うことが本当なら、碧をここに就職させたのは暁ということになる。
暁がなにを考えてるのかはわからない。
だけどもう、碧には関係のないことだった。
肩に提げている鞄を持つ手に力をこめる。
とにかく働かないといけない。だれのどんな思惑があっても関係ない。
「で、久松さんの席なんですけど」
長谷はクルッと無人のデスクを振り返る。
「ここです」
縦横二列ずつの四つの席。そこの右端に直角に向けた上司用の席がくっついている。ここが暁の席なんだろう。
長谷が示したのは左側の手前の席だった。右隣からティッシュの箱とパンフレットと、あとなぜかセーラー服の美少女フィギュアが転がってきている。
「それで、あそこが遠野の席ですね」
長谷の手が向けられたのは案の定、上司用の席だった。碧の隣の隣になる。
暁の席はきれいに整頓されていた。畳まれたノートパソコン以外はあまり物がない。右隅に卓上カレンダーと、書類の入ったラックが置かれている。
ここで働いてるんだ。大人になって、居場所を作って、毎日がんばってる。
そこの内線を取って、パソコンを打ちながら仕事をしている姿を想像した。遠い昔に授業を受けている彼の姿と重ねることはどうしてもできなかった。
長谷はそう言って扉を開いた。面接が面接だったからか、碧に向ける笑顔はどこかぎこちない。けれどそんなことに気がつく余裕はない。碧は肩に提げた鞄を握ると、少し緊張しながら後についていった。
広いフロアだった。塾の講師室よりも広い。入り口から奥に行くにつれて少しずつ横幅の狭くなるふしぎな形の間取りで、上から見るとちょうど三角形になる。向かい合って十人ずつくらいが座れるデスクには半分くらい人がいて、電話をしたりパソコンに向かったりしていた。
「コンサビは一番奥になりますね」
コンサビ? と繰り返しながらキョロキョロと辺りを見回す。首から社員証を提げた男女が数名、興味深げにこちらを見ていた。
「コンテンツサービス事業部の通称ですよ」
言いながら、長谷は奥のフロアへと碧を案内した。
三角形の形のフロアという認識はまちがってないようだ。入り口近くは十人ずつくらいの長いデスクになっていたのに、こちらはスペースが狭いからか、四人ずつが向かい合うくらいのスペースしかない。口の開いたダンボールがデスクの下にも上にも重ねられていて、人がいないのに圧迫感はある。
そう、いない。デスクにはだれもいなかった。
長谷がデスクの後ろにかけられたホワイトボードを振り返って、幼児のラクガキのような字を読み解く。
「あー、まだみんな来てないようですね」
碧を振り返って、とりなすように笑顔を作る。
「部署によってバラバラなんですけどね、コンサビは割合夜型なんで、特に用が無ければ昼前くらいにみんな出社するんですよ」
人事としてはね、早く来て早く帰ってほしいんですけど、と笑う。
用が無ければ、ね。
新人が来るのは、特別な用事じゃないってわけだ。
じろ、と無人のデスクを見やる。どのデスクの上にも書き殴られたコピー用紙の束やパンフレットや定規や電卓が散乱していて、来てるんだか来てないんだかの見分けがつきにくい。
「この間はすみませんでした」
長谷が少し小さな声で言う。めがねの両端に手をあてて、
「遠野、あ、ここのリーダーなんですが、あいつちょっと忙しいのか、ずいぶん失礼をしまして。普段あんな奴じゃないんですけどね」
はは、と力なく笑う。
「あんな形で面接が終わってしまったんで、正直ちょっと諦めてました。来てくれないかなって」
そりゃそうだろう。けどそれでも来たということは、仕事をもらえればどんな扱いをしてもノコノコ来る人間だと言ってるようなものなんだな、と今さらながら気がつく。事実なんだけど。
「私も、採用になると思いませんでした」
正直に言う。
長谷はめがねのツルを片手で抑えて、そっと笑った。
「そうですよね。いや、遠野がですね、非常にあなたを推してまして」
聞き間違いかとおもった。この間から何度も耳を疑う発言を聞いてるけど、今度こそ幻聴を聞いてしまったんだな、と。
なので、反応せず長谷の後ろのデスクで電話をしている男性社員の後ろ姿を眺めていた。あっちのデスクはラフな格好の人が多い。部署ごとにカラーが違うみたいだ。
「あの、久松さん?」
長谷がおずおずと声をかける。
「あ、はい」
「あの、本当にすみません。遠野が」
また腰を曲げて頭を下げる。さっきから何度目だろう。
「いえ、長谷さんの所為じゃないですし」
ぺこぺこ頭を下げる長谷を見ながら、穏やかな人だなぁと思う。人事がいい会社は優良企業ですよ、と瀬崎が言っていたのを思い出す。ということはこの会社も、けっこう期待していいのかもしれない。
「信じてもえらえないかもしれませんが、あなたを採用してほしいと私に言ってきたのは、遠野なんです」
長谷はそう言って微笑んだ。
「帰ってもらえますか、なんて言うから驚いたんだんですが、真意としてはね、これ以上聞かなくてもわかった、ということだったそうですよ。たしかに僕も採用を担当していてね、これは良いな、と思う人はすぐわかるんで」
逆にダメかな、と思う人もすぐわかるんですけどねぇ、と長谷は笑う。碧はぼうっとその言葉を聞いていた。
ほんとに? あの態度や言い方の裏に、そんな思いがあった?
いやいや無いでしょ、と心の内ですぐに却下する。
いくらなんでも、そんなわけない。暁との間にあったことを抜きにしても、あの態度で実は合格だと思ってましたなんて言われても、信じられない。
でもそれじゃ、どうして自分は採用されたんだろう。長谷の言うことが本当なら、碧をここに就職させたのは暁ということになる。
暁がなにを考えてるのかはわからない。
だけどもう、碧には関係のないことだった。
肩に提げている鞄を持つ手に力をこめる。
とにかく働かないといけない。だれのどんな思惑があっても関係ない。
「で、久松さんの席なんですけど」
長谷はクルッと無人のデスクを振り返る。
「ここです」
縦横二列ずつの四つの席。そこの右端に直角に向けた上司用の席がくっついている。ここが暁の席なんだろう。
長谷が示したのは左側の手前の席だった。右隣からティッシュの箱とパンフレットと、あとなぜかセーラー服の美少女フィギュアが転がってきている。
「それで、あそこが遠野の席ですね」
長谷の手が向けられたのは案の定、上司用の席だった。碧の隣の隣になる。
暁の席はきれいに整頓されていた。畳まれたノートパソコン以外はあまり物がない。右隅に卓上カレンダーと、書類の入ったラックが置かれている。
ここで働いてるんだ。大人になって、居場所を作って、毎日がんばってる。
そこの内線を取って、パソコンを打ちながら仕事をしている姿を想像した。遠い昔に授業を受けている彼の姿と重ねることはどうしてもできなかった。