元教え子は現上司
トイレの場所を教えてもらったり、パソコンの設定をしたりしてる間にあっという間に一時間ほど経った。どこの部署もほとんど席が埋まってきて、その一方でスーツ姿の人たちが忙しなく出て行ったりしている。
そんな中、相変わらず碧のいるデスク周辺は誰もいなかった。やることもないから、適当にグーグル検索して時間を潰していると、
「そうなの、そしたら遠野君がいて」
通り過ぎる話し声に振り返る。暁と同じくらいの歳の女の子たちが、楽しげに話しながら通路を歩いていた。
「びっくりしたよ~。遠野君もこういうところ来るんだっておもって」
「話しかけてみた?」
むりだよぉ、と聞かれた子が手を振る。頬を赤くした小柄なその子は、さくらんぼを思わせてとてもかわいかった。
「なんでよもったいない!」
「いやだって」
キャッキャと笑いながら出て行く彼女たちをぼんやりと見る。
なんだ、人気あるじゃん。
そりゃそうか、と思い直す。つい印象的な目にばかり視線がいくけど、全体的に整った顔立ちをしてる。あの若さでリーダーになって、さぞかし社内でも頼もしい存在に見えるだろう。
いいなー先生。遠野君人気あるんだよぉ。
いつか女生徒が言っていた。モテる子って、大人になっても変わらないんだ。
「あー、新人さんだぁ」
驚くほど近くで声がして、ビクッと振り返る。
アルバイトの子だろうか。小動物を思わせる丸い目に、男の子にしては小柄な身体。こっちが椅子に座ってるから正確なところはわからないけど、立つと身長があまり変わらない気がする。サイズがやや大きそうな丸襟のシャツに、足首がのぞく丈のカーゴパンツを合わせた姿は、どう見ても高校生くらいにしか見えない。
「あの……?」
立ち上がったほうがいいのか迷いながら、一応座ったままその子を見上げる。その子はそっかそっかぁ、と頷いて、当たり前のように碧の右隣に座った。面食らっていると、にこにこ笑いかけてくる。
「そういえば今日から新しい人くるって、はっちゃん言ってたぁ」
はっちゃん?
あの、と声をかけようとすると、その子は碧のデスクを見て、
「あ、ごめんなさいっ」
ハッとした顔でデスクに傾れてきている資料の山やファイル、そして美少女フィギュアをかき集めて右のデスクに寄せた。
「え?」
彼が、細い腕いっぱいにゴミ(に見えたものたち)を抱えながらにこっと笑う。
「ようこそコンサビへ。ぼく、深見っていいます。みんなからフカミンって呼ばれてるんで、そう呼んでね」
フカミンはそう言って、ゴミの山から片手を伸ばすと、目を見開いている碧の右手をむんずと掴んで握手をした。
「あなたはなんて名前?」
「あ、えっと、ひ、久松です」
握手をしたまま慌てて頭を下げる。隣はバイトの子なのか。予備校の生徒たちとそう変わらないくらいの歳だろうに、会社でアルバイトなんてしてるんだ。予備校の子たちなんて皆マックやコンビニだったのに。
おもってることが顔に出ていたらしい。フカミンはニコニコ笑ったまま、
「久松さんサーティーワンでしょお?」
一瞬アイスクリームが頭に浮かんだ。私はハーゲンダッツも好きだ、と思いながら小さく首を傾けると、
「さんじゅういっさい」
フカミンが握手をしたままあっけらかんと言った。
「え」
会って間もない相手から、年齢について言われた。身を引こうとしても、手を掴まれていてそれもできない。フカミンは相変わらず笑ったまま何度か頷いた。
「ぼく、同い歳。ダブルコーンってかんじだね」
なんだそれ。
眉間にシワを寄せる。どう見ても平成っ子でしょ。
フカミンは握った手を自分の方に引き寄せた。自然と、からだがフカミンのほうに傾く。
「嘘じゃないよ~。ほら見て、これ」
フカミンは引き出しを開けるとカードを取り出した。なにかとおもったら運転免許証だった。
「ほらねここ」
「なんでこんなとこにそんな大事な物入れてるんですか」
変だこの人。そう思いつつ好奇心でさらに身を乗り出すと、
ダンッ。
碧とフカミンの間に、柱が立った。
――――え?
ぽかんとして見上げる。ふっと顔に影が差した。
こちらをまっすぐに見下ろす眼差し。柱だとおもったのは腕だった。大きな手が碧とフカミンを分断するように置かれている。
「もう仲良くなったみたいですね」
暁が笑いかける。唇の端だけで。
「これからよろしくお願いしますね、久松さん」
蛇ににらまれた蛙。そんな慣用句を思い出す。類語は「鷹の前の雀」「猫の前の鼠」。元国語講師のサガで、反射的にそんなことを反復してしまう。
暁はゆっくりした動作で体を起こすと、
「ずいぶん仲が良くなったようなので、今さら必要ないかもしれませんが」
声に棘がある。両腕を組んで碧を見下ろす目は氷のようだ。
「深見さんです。教材ソフトのデザインを担当しています」
よろしくね~、とフカミンがひらひらと運転免許書を振りながら笑う。そこに碧と同じ生年月日の年数が書いてあるのを見て、笑みが引きつらないよう気をつけながら頭を下げた。信じられないけれどこの童顔の男は碧と同い歳だった。しかも誕生日は向こうのほうが四ヶ月早い。
暁をそっと見る。暁は黙って指先で自分の下唇をつねっていた。そのしぐさを見て、あ、と思った。
イライラしてるときの暁のクセだ。
ほんとに暁なんだなぁ、と急に実感する。八年も経っているし、いろんな意味で別人のようだ。これまで何度も彼が大人になった姿をイメージしてきたけど、それとは全くちがっていた。
だけど、昔と変わらないクセを見つけて、胸の奥がぎゅっと狭まった気がする。
やっぱり暁だ。
あんなに好きだった。今は、こんなに近くにいる。教師でも生徒でもなく。そのことがまだ信じられない。
「久松さん、聞いてますか」
冷静、というより冷たい声に呼び戻される。暁が八年前は一度もしなかった目つきでこちらを見下ろしていた。
「あ、ごめんなさい」
ぎこちなく目をそらす。思い出の中の少年が一瞬にして大人の男に変わっていたことに、まだ慣れない。というか、受け止められないでいた。
開けないほうがよかった箱に手を伸ばしてしまったような、心もとない気もち。
「あと一人いるんだけどね、お得意さんの塾行ってから出社するからちょっと遅くなるんだって。さっきLINEきた」
フカミンが笑いながら言う。この会社、業務報告LINEなんだ……と思っていると、
「おっはよーございまーす」
暁とフカミンの後ろから、甲高い声がした。
カッカッカッ。ヒールが小気味よくフロアを通る音がする。
「もー聞いてくださいよぉ。中村サンたらぁ、飲み行こーってしつこくてぇ。新しいパンフ置きに行くだけでチョーつかれたぁ」
パンツスーツのその子は、パーマがかかった胸までの黒髪をかきあげると物憂げにため息をついた。エクステなのかなんなのか、長い睫毛に縁どられた目がとてもかわいい。二十代前半くらいだろうか。
「ユナちゃん」
フカミンがその子に声をかけて碧を指さす。ユナちゃん、と呼ばれたその子はフカミンの指先を視線で辿って、碧のほうを見た。
「あ! 新人さんって今日からだったっけ?」
「そだよ~。よかったねユナちゃんこれで女の子増えたよ~」
フカミンが笑って頷くと、ユナも笑った。笑うとますますかわいい。さっきのさくらんぼちゃんといい、この会社はかわいい子が多いなぁと思っていると、
「やっだフカミン、このひと女の子って歳じゃなくない?」
「…………え」
凍りついた。フカミンも、笑った顔のまま止まってる。暁は口元に手をあてて視線をそらした。ユナが一人、ウケる~と言って笑いながら碧の正面に鞄を置いた。
「よかった~。オンナノヒト来るっていうからユナとキャラかぶったらどぉしよぉっておもったけど、これなら大丈夫そーだねっ」
……なに? え?
固まっていると、ユナはフフンと鼻歌を歌いながらパソコンを起動し始めた。碧はポカンとその様子を見ていた。
ふっ。
かすれた声が聞こえておもわず振り向く。片手で口元を抑えた暁が、こらえ切れないというように肩を震わせていた。フカミンは相変わらず笑顔のまま碧に言った。
「ユナちゃん、悪い子じゃないんだよ~。ただちょっと女性ウケしないだけで」
ここが今日から碧の職場。
……瀬崎さんの番号は、まだ消さないでおこう。
転職エージェントの登録解除をしないことを決めた、入社初日。
そんな中、相変わらず碧のいるデスク周辺は誰もいなかった。やることもないから、適当にグーグル検索して時間を潰していると、
「そうなの、そしたら遠野君がいて」
通り過ぎる話し声に振り返る。暁と同じくらいの歳の女の子たちが、楽しげに話しながら通路を歩いていた。
「びっくりしたよ~。遠野君もこういうところ来るんだっておもって」
「話しかけてみた?」
むりだよぉ、と聞かれた子が手を振る。頬を赤くした小柄なその子は、さくらんぼを思わせてとてもかわいかった。
「なんでよもったいない!」
「いやだって」
キャッキャと笑いながら出て行く彼女たちをぼんやりと見る。
なんだ、人気あるじゃん。
そりゃそうか、と思い直す。つい印象的な目にばかり視線がいくけど、全体的に整った顔立ちをしてる。あの若さでリーダーになって、さぞかし社内でも頼もしい存在に見えるだろう。
いいなー先生。遠野君人気あるんだよぉ。
いつか女生徒が言っていた。モテる子って、大人になっても変わらないんだ。
「あー、新人さんだぁ」
驚くほど近くで声がして、ビクッと振り返る。
アルバイトの子だろうか。小動物を思わせる丸い目に、男の子にしては小柄な身体。こっちが椅子に座ってるから正確なところはわからないけど、立つと身長があまり変わらない気がする。サイズがやや大きそうな丸襟のシャツに、足首がのぞく丈のカーゴパンツを合わせた姿は、どう見ても高校生くらいにしか見えない。
「あの……?」
立ち上がったほうがいいのか迷いながら、一応座ったままその子を見上げる。その子はそっかそっかぁ、と頷いて、当たり前のように碧の右隣に座った。面食らっていると、にこにこ笑いかけてくる。
「そういえば今日から新しい人くるって、はっちゃん言ってたぁ」
はっちゃん?
あの、と声をかけようとすると、その子は碧のデスクを見て、
「あ、ごめんなさいっ」
ハッとした顔でデスクに傾れてきている資料の山やファイル、そして美少女フィギュアをかき集めて右のデスクに寄せた。
「え?」
彼が、細い腕いっぱいにゴミ(に見えたものたち)を抱えながらにこっと笑う。
「ようこそコンサビへ。ぼく、深見っていいます。みんなからフカミンって呼ばれてるんで、そう呼んでね」
フカミンはそう言って、ゴミの山から片手を伸ばすと、目を見開いている碧の右手をむんずと掴んで握手をした。
「あなたはなんて名前?」
「あ、えっと、ひ、久松です」
握手をしたまま慌てて頭を下げる。隣はバイトの子なのか。予備校の生徒たちとそう変わらないくらいの歳だろうに、会社でアルバイトなんてしてるんだ。予備校の子たちなんて皆マックやコンビニだったのに。
おもってることが顔に出ていたらしい。フカミンはニコニコ笑ったまま、
「久松さんサーティーワンでしょお?」
一瞬アイスクリームが頭に浮かんだ。私はハーゲンダッツも好きだ、と思いながら小さく首を傾けると、
「さんじゅういっさい」
フカミンが握手をしたままあっけらかんと言った。
「え」
会って間もない相手から、年齢について言われた。身を引こうとしても、手を掴まれていてそれもできない。フカミンは相変わらず笑ったまま何度か頷いた。
「ぼく、同い歳。ダブルコーンってかんじだね」
なんだそれ。
眉間にシワを寄せる。どう見ても平成っ子でしょ。
フカミンは握った手を自分の方に引き寄せた。自然と、からだがフカミンのほうに傾く。
「嘘じゃないよ~。ほら見て、これ」
フカミンは引き出しを開けるとカードを取り出した。なにかとおもったら運転免許証だった。
「ほらねここ」
「なんでこんなとこにそんな大事な物入れてるんですか」
変だこの人。そう思いつつ好奇心でさらに身を乗り出すと、
ダンッ。
碧とフカミンの間に、柱が立った。
――――え?
ぽかんとして見上げる。ふっと顔に影が差した。
こちらをまっすぐに見下ろす眼差し。柱だとおもったのは腕だった。大きな手が碧とフカミンを分断するように置かれている。
「もう仲良くなったみたいですね」
暁が笑いかける。唇の端だけで。
「これからよろしくお願いしますね、久松さん」
蛇ににらまれた蛙。そんな慣用句を思い出す。類語は「鷹の前の雀」「猫の前の鼠」。元国語講師のサガで、反射的にそんなことを反復してしまう。
暁はゆっくりした動作で体を起こすと、
「ずいぶん仲が良くなったようなので、今さら必要ないかもしれませんが」
声に棘がある。両腕を組んで碧を見下ろす目は氷のようだ。
「深見さんです。教材ソフトのデザインを担当しています」
よろしくね~、とフカミンがひらひらと運転免許書を振りながら笑う。そこに碧と同じ生年月日の年数が書いてあるのを見て、笑みが引きつらないよう気をつけながら頭を下げた。信じられないけれどこの童顔の男は碧と同い歳だった。しかも誕生日は向こうのほうが四ヶ月早い。
暁をそっと見る。暁は黙って指先で自分の下唇をつねっていた。そのしぐさを見て、あ、と思った。
イライラしてるときの暁のクセだ。
ほんとに暁なんだなぁ、と急に実感する。八年も経っているし、いろんな意味で別人のようだ。これまで何度も彼が大人になった姿をイメージしてきたけど、それとは全くちがっていた。
だけど、昔と変わらないクセを見つけて、胸の奥がぎゅっと狭まった気がする。
やっぱり暁だ。
あんなに好きだった。今は、こんなに近くにいる。教師でも生徒でもなく。そのことがまだ信じられない。
「久松さん、聞いてますか」
冷静、というより冷たい声に呼び戻される。暁が八年前は一度もしなかった目つきでこちらを見下ろしていた。
「あ、ごめんなさい」
ぎこちなく目をそらす。思い出の中の少年が一瞬にして大人の男に変わっていたことに、まだ慣れない。というか、受け止められないでいた。
開けないほうがよかった箱に手を伸ばしてしまったような、心もとない気もち。
「あと一人いるんだけどね、お得意さんの塾行ってから出社するからちょっと遅くなるんだって。さっきLINEきた」
フカミンが笑いながら言う。この会社、業務報告LINEなんだ……と思っていると、
「おっはよーございまーす」
暁とフカミンの後ろから、甲高い声がした。
カッカッカッ。ヒールが小気味よくフロアを通る音がする。
「もー聞いてくださいよぉ。中村サンたらぁ、飲み行こーってしつこくてぇ。新しいパンフ置きに行くだけでチョーつかれたぁ」
パンツスーツのその子は、パーマがかかった胸までの黒髪をかきあげると物憂げにため息をついた。エクステなのかなんなのか、長い睫毛に縁どられた目がとてもかわいい。二十代前半くらいだろうか。
「ユナちゃん」
フカミンがその子に声をかけて碧を指さす。ユナちゃん、と呼ばれたその子はフカミンの指先を視線で辿って、碧のほうを見た。
「あ! 新人さんって今日からだったっけ?」
「そだよ~。よかったねユナちゃんこれで女の子増えたよ~」
フカミンが笑って頷くと、ユナも笑った。笑うとますますかわいい。さっきのさくらんぼちゃんといい、この会社はかわいい子が多いなぁと思っていると、
「やっだフカミン、このひと女の子って歳じゃなくない?」
「…………え」
凍りついた。フカミンも、笑った顔のまま止まってる。暁は口元に手をあてて視線をそらした。ユナが一人、ウケる~と言って笑いながら碧の正面に鞄を置いた。
「よかった~。オンナノヒト来るっていうからユナとキャラかぶったらどぉしよぉっておもったけど、これなら大丈夫そーだねっ」
……なに? え?
固まっていると、ユナはフフンと鼻歌を歌いながらパソコンを起動し始めた。碧はポカンとその様子を見ていた。
ふっ。
かすれた声が聞こえておもわず振り向く。片手で口元を抑えた暁が、こらえ切れないというように肩を震わせていた。フカミンは相変わらず笑顔のまま碧に言った。
「ユナちゃん、悪い子じゃないんだよ~。ただちょっと女性ウケしないだけで」
ここが今日から碧の職場。
……瀬崎さんの番号は、まだ消さないでおこう。
転職エージェントの登録解除をしないことを決めた、入社初日。