元教え子は現上司
開け放した廊下の窓から風が吹いて、胸の下まで垂らした髪が舞い上がった。窓の向こうの生垣から新緑の木々が風に揺れて梢が音をたてる。さっき降って止んだ雨が緑の匂いを強く運んだ。
終わったばかりのゴールデンウィークの興奮を引きずっているのか、廊下を走る生徒がいつもより多い。走らないのー、と言っても聞かないので、せめてぶつからないように両手で抱え持つ教材を守るようにゆっくりと歩いた。
「先生!」
声に振り返る。その瞬間口の端に髪の毛が入り込んで、やっぱりヘアゴムを持ってくればよかったとおもった。職員室に戻ったら、お局みたいな女性教員に嫌味を言われそうだ。五十代のベテラン教師から見れば、二ヶ月前まで大学生だった自分なんてまだ生徒みたいなものだろう。
「どうしたの?」
「これ読んだよー! めっちゃおもしろかった」
女生徒が興奮した顔で手に持っているのは少し表紙が色あせた少女漫画だ。ピンクの小さなハートと花が舞う背景を背に、女の子がウィンクしている。
「でしょ? それはね、高校生のとき一回は読んどくべきだとおもうんだよねー」
碧が高校生だったときに夢中になった純愛漫画。当時ものすごく人気で、ドラマ化されて映画化されて、皆で映画館まで見に行った思い出の作品だ。
「感想文持ってきた?」
碧の問いに女生徒はウンと頷いて、ハート型に折られたメモ用紙を取り出した。
「人のいないとこで見てね、恥ずかしいから」
もちろん、と笑って答える。メモ用紙を受け取るために、両手で持っていた教材を無理やり片手に寄せて手を伸ばす。その拍子に、
「わっ」
三センチほどのヒールがグキッと鳴って、横に体が崩れた。教材を握りしめる。
ガシッ。
そのまま転びそうになったところを、腕をつかまれて食い止まった。ほっとして顔を上げる。
「大丈夫?」
「遠野君」
身長百六十センチの碧より二十センチ以上高い背。一年生の遠野暁(とおのさとる)が碧の腕をつかんでこちらを見下ろしていた。二重の目がじっと碧を見ている。
おもわずきれいな目だな、なんてばかなことを考えた。
そのままグイッと腕が引かれ、体がまっすぐに戻る。
「ありがとう」
先生へいきー? と女生徒が言う声に笑って頷く。暁ははずみで落としてしまった漫画を拾うと、表紙を見て
「なにこれ、新しいやつ?」
そうそう、と腕の中で教材を持ち直しながら答える。
「ホント好きだね、漫画。ほんとは没収する立場なんじゃないの」
暁がからかうように笑う。碧は左右をすばやく見て、声をひそめた。
「だからこっそりやってるんじゃない。それに感想文は提出してもらってるし」
いいから返してよ、という意味をこめて顎をグイッと上げる。
感動すればすべて文学だ。それが碧のポリシーだった。担当科目は国語だったけれど、だからといって明治や大正の文豪の作品ばかり生徒に薦めたいとはおもわなかった。
まだ心が柔らかい十代のうちに、たくさんの作品に触れて、できるだけ心豊かな人間になってほしい。漫画だって立派な作品で、立派な文学だ。そうおもって、こっそりこうやって生徒に漫画を貸し出していた。
ただし一応教育の一環としてやってるという名目があるので、漫画を貸した生徒には必ず感想文を書いてもらうようにしていた。形式は、手紙でもなんでもいい。一行だってかまわない。自分の心の琴線に触れたワンフレーズをそのまま書いてもいい。
読んだこと。書いたこと。伝えたこと。それがいつか生徒たちにとって、なにか意味のあるものになってほしい。そんなふうにおもっていた。
ぱらぱら、とページをめくっていた暁が漫画を閉じる。
「これ俺にも貸して」
えー、と隣で女生徒が笑う。
「それ少女マンガだよー?」
いいんだよ、と暁はニヤッと笑った。窓から入ってくる陽光が黒髪ときれいな目に光りを浴びせて、あと数年もしたらいい男になりそうな気配を漂わせていた。
「じゃあね、先生」
漫画をヒラヒラとかざして廊下を歩いていく。女生徒が笑いを含んだ声で言う。
「なんだかんだ言ってさぁ、遠野君て先生の漫画いっつも借りてるよねー」
「そうだっけ?」
ごまかす口調で言っても、わかっていた。家の引き出しにたまった生徒たちからの感想文。差出人の数で一番多いのは暁からのものだった。
女生徒が興奮したように、ね、ね、と碧に顔を近づける。
「遠野君さ、ぜったい先生のこと好きだよね」
エェーとあわてた声を出す。生徒との過剰な接触、誤解を招かれるような行動は控えてください、あなたはまだ若いんだから。初日に指導員に言われた言葉がよみがえる。
「いいなー先生。遠野君人気あるんだよぉ」
女生徒がため息混じりに言う。背の高いきれいな目をした少年に憧れている子が何人かいるのは、碧も知っていた。教壇に立っていると、本人たちがおもってる以上に誰が誰を見ているのかよくわかる。
こまったなぁと笑いながら、少しだけ喜んでる自分もいた。好かれることは悪いことじゃない。まして美少年なら尚良い。そんな軽い気もちで考えていた。
だけど、返ってきた感想文を見て、浮ついていた気もちがピリッと固まった。
終わったばかりのゴールデンウィークの興奮を引きずっているのか、廊下を走る生徒がいつもより多い。走らないのー、と言っても聞かないので、せめてぶつからないように両手で抱え持つ教材を守るようにゆっくりと歩いた。
「先生!」
声に振り返る。その瞬間口の端に髪の毛が入り込んで、やっぱりヘアゴムを持ってくればよかったとおもった。職員室に戻ったら、お局みたいな女性教員に嫌味を言われそうだ。五十代のベテラン教師から見れば、二ヶ月前まで大学生だった自分なんてまだ生徒みたいなものだろう。
「どうしたの?」
「これ読んだよー! めっちゃおもしろかった」
女生徒が興奮した顔で手に持っているのは少し表紙が色あせた少女漫画だ。ピンクの小さなハートと花が舞う背景を背に、女の子がウィンクしている。
「でしょ? それはね、高校生のとき一回は読んどくべきだとおもうんだよねー」
碧が高校生だったときに夢中になった純愛漫画。当時ものすごく人気で、ドラマ化されて映画化されて、皆で映画館まで見に行った思い出の作品だ。
「感想文持ってきた?」
碧の問いに女生徒はウンと頷いて、ハート型に折られたメモ用紙を取り出した。
「人のいないとこで見てね、恥ずかしいから」
もちろん、と笑って答える。メモ用紙を受け取るために、両手で持っていた教材を無理やり片手に寄せて手を伸ばす。その拍子に、
「わっ」
三センチほどのヒールがグキッと鳴って、横に体が崩れた。教材を握りしめる。
ガシッ。
そのまま転びそうになったところを、腕をつかまれて食い止まった。ほっとして顔を上げる。
「大丈夫?」
「遠野君」
身長百六十センチの碧より二十センチ以上高い背。一年生の遠野暁(とおのさとる)が碧の腕をつかんでこちらを見下ろしていた。二重の目がじっと碧を見ている。
おもわずきれいな目だな、なんてばかなことを考えた。
そのままグイッと腕が引かれ、体がまっすぐに戻る。
「ありがとう」
先生へいきー? と女生徒が言う声に笑って頷く。暁ははずみで落としてしまった漫画を拾うと、表紙を見て
「なにこれ、新しいやつ?」
そうそう、と腕の中で教材を持ち直しながら答える。
「ホント好きだね、漫画。ほんとは没収する立場なんじゃないの」
暁がからかうように笑う。碧は左右をすばやく見て、声をひそめた。
「だからこっそりやってるんじゃない。それに感想文は提出してもらってるし」
いいから返してよ、という意味をこめて顎をグイッと上げる。
感動すればすべて文学だ。それが碧のポリシーだった。担当科目は国語だったけれど、だからといって明治や大正の文豪の作品ばかり生徒に薦めたいとはおもわなかった。
まだ心が柔らかい十代のうちに、たくさんの作品に触れて、できるだけ心豊かな人間になってほしい。漫画だって立派な作品で、立派な文学だ。そうおもって、こっそりこうやって生徒に漫画を貸し出していた。
ただし一応教育の一環としてやってるという名目があるので、漫画を貸した生徒には必ず感想文を書いてもらうようにしていた。形式は、手紙でもなんでもいい。一行だってかまわない。自分の心の琴線に触れたワンフレーズをそのまま書いてもいい。
読んだこと。書いたこと。伝えたこと。それがいつか生徒たちにとって、なにか意味のあるものになってほしい。そんなふうにおもっていた。
ぱらぱら、とページをめくっていた暁が漫画を閉じる。
「これ俺にも貸して」
えー、と隣で女生徒が笑う。
「それ少女マンガだよー?」
いいんだよ、と暁はニヤッと笑った。窓から入ってくる陽光が黒髪ときれいな目に光りを浴びせて、あと数年もしたらいい男になりそうな気配を漂わせていた。
「じゃあね、先生」
漫画をヒラヒラとかざして廊下を歩いていく。女生徒が笑いを含んだ声で言う。
「なんだかんだ言ってさぁ、遠野君て先生の漫画いっつも借りてるよねー」
「そうだっけ?」
ごまかす口調で言っても、わかっていた。家の引き出しにたまった生徒たちからの感想文。差出人の数で一番多いのは暁からのものだった。
女生徒が興奮したように、ね、ね、と碧に顔を近づける。
「遠野君さ、ぜったい先生のこと好きだよね」
エェーとあわてた声を出す。生徒との過剰な接触、誤解を招かれるような行動は控えてください、あなたはまだ若いんだから。初日に指導員に言われた言葉がよみがえる。
「いいなー先生。遠野君人気あるんだよぉ」
女生徒がため息混じりに言う。背の高いきれいな目をした少年に憧れている子が何人かいるのは、碧も知っていた。教壇に立っていると、本人たちがおもってる以上に誰が誰を見ているのかよくわかる。
こまったなぁと笑いながら、少しだけ喜んでる自分もいた。好かれることは悪いことじゃない。まして美少年なら尚良い。そんな軽い気もちで考えていた。
だけど、返ってきた感想文を見て、浮ついていた気もちがピリッと固まった。