元教え子は現上司
過去につながる
どんなに嫌なことがあっても朝は来て、一歩外に出れば日常は回っている。碧の気もちにはおかまいなく、いつもの速度で。碧は二十二歳のときに、そのことに痛いくらい気づかされた。
ということで、昨日と同じ時間に起きて、昨日より念入りに化粧をして外に出る。
まだ慣れない駅からの道を辿って会社に着くと、コンサビの部署に一人だけ座っている人がいた。
途端に、足がずんと重くなる。
こういうときは予め笑顔を作っておくことが肝心だ。肩にかけた鞄を握る手に力をこめて、グッと口角を引き上げる。歩きながらおはようございます、とその辺の人たちに声をかけて、声がかすれないように調整する。
「おはようございます」
鞄を置きながら声をかける。
「おはようございます」
暁がパソコンに視線を向けたまま返した。カタカタカタ、とパソコンを打つ音。碧は唇を引き締めて、ガタンと椅子に座った。少し乱暴な音が出た。
絶対に許さない。
あんたのこと、大嫌いだ。
再会してから今までで、たぶん唯一本音で言われた言葉。思い出すと、胃が引っかかれたように痛くなる。
当然だ。それだけのことをしたんだから。
二十二歳の碧がした恋人の守り方は、とんでもなく不器用だった。しかも翌日に引っ越すなんて、ずいぶんパワーがあったんだなと思う。若いからできた。今同じことがあったとしても、そんなすぐに行動に移せる自信はない。なんだかんだいって、恋は若さと相性がいい。
彼の将来を守りたいだなんて、今思い返すと独善的な考えだなとも思う。
でもそれは袴木との果たすべき約束であり、碧なりのプライドだった。
一年目で横道にそれてしまったとはいえ、碧は教師だったのだから。
それにしても八年も経つと、自分のことなんだけどどこか他人事のようにも思えるものだ。
パソコンでメールをチェックしながら、そんなことを考えていた。まだ仕事を始めて二日目だから、自分宛のメールはほとんどない。
社会人一年目で教師になって、その後も塾の講師として働いていた碧には会社員の経験がない。広いフロアでパソコンに向かっていると、三十路を過ぎてはじめて社会人になったようにも感じる。
とりあえず、なにからやっていけばいいんだろう? 昨日はオリエンテーションのようなことばかりで、この部署がどんな仕事をしてるのかもわかってない。
碧のそんな考えを読み取ったかのように、暁が声をかけた。
「久松さん」
はい、と振り向く。暁がこちらを見ている。昔のまっすぐな眼差しと似てるけれど、どこかちがう。感情のない目。
いい加減思い知らないといけない。暁とはたしかに一時恋人同士だった。だけどあれから八年も経って、碧にもいろんなことが起こった。それは彼も同じだろう。
もう、ただの職場の上司と部下なんだ。もともとそれを理解したからこそ、自分はここにいる。
指導教員に呼ばれたら、すぐに立ち上がってデスクまで行くこと。
新人時代に教えられたそんなフレーズがよみがえって、碧は暁のそばに小走りで近づく。
「なんでしょうか」
暁がじっと碧を見上げる。すぐに話し始めるかと思いきや、あまりにも長く見つめられるので少しまごついた。
「あの」
暁はハッとしたように目をそらすと、
「うちの部署の仕事を覚えてもらいます。これを見てください」
事務的な口調で持っていた資料を渡した。左上がホチキスで止められているプリントの束。
「これがうちの部署のメイン商材です」
碧はパラ、とプリントの一枚目をめくる。
学習ソフト「ヒラメキ」。小学生から高校生までがターゲット層の教材で、学習塾の自習室に提供する法人用と、自宅で勉強する生徒に提供する個人用がある。
「うちはヒラメキの内容を企画する部署です。たとえば、深見さんのデスクにある人形」
セーラー服の美少女フィギュアに、暁が視線を寄こす。
「生徒が勉強に飽きないように、ソフトの中にああいうキャラクターを随所に入れることを考えたりもします」
碧はようやく納得した。
「だからあの人形が飾られてるんですね」
「さぁ。本人の趣味なんじゃないですか」
暁は冷たく言った。
「…………」
ここで「え~」と返すくらい距離が近いわけでもないので黙っている。そのとき、
ピリリリリ。
携帯の着信が鳴った。暁がジャケットの内側に手を伸ばして携帯を取り出した。
「はい遠野です。お世話になっております。いえ、こちらこそありがとうございました」
話しながら片手でパソコンに向かってカタカタとキーを叩く。
「はい、弊社もその方向で検討していまして。できれば今週中に一度お会いしたいんですが」
碧が隣にいることなんて忘れているかのように話す暁をじっと見ていた。
大人になったんだ、暁。
昨日も感じたことを、今日も思う。碧のいない時間に、彼はこんなにも大人になっていた。
やっぱり、どんなに嫌われてもやっぱり、この姿を見ることができてよかった。
「おっはよーございます」
声に振り返ると、鞄をブンブンと振り回しながらユナが歩いて来た。楽しそうに笑って、
「あー、ひぃちゃん昨日大丈夫だったぁ? 先帰っちゃって~」
と、まるで生徒のような口調で話しかけてくる。この子は社会人としてこれでいいのかと思いながらも、どこか憎めず力なく笑う。
「すみません、ご迷惑おかけして」
「びっくりしたんだからぁ。リーダーもさ、あの後すっごい勢いで~」
「ユナさん」
いつの間にか通話を切った暁が片手を上げてユナを手招きする。
「ちょうどよかった。この資料のバージョンが古いので、アップデートされてるものをくれませんか」
暁の説明に、ユナがハァイと頷く。碧は二人のやり取りを見ながら考えた。
あの後すっごい勢いで~
つづく言葉はなんだったんだろう。
ということで、昨日と同じ時間に起きて、昨日より念入りに化粧をして外に出る。
まだ慣れない駅からの道を辿って会社に着くと、コンサビの部署に一人だけ座っている人がいた。
途端に、足がずんと重くなる。
こういうときは予め笑顔を作っておくことが肝心だ。肩にかけた鞄を握る手に力をこめて、グッと口角を引き上げる。歩きながらおはようございます、とその辺の人たちに声をかけて、声がかすれないように調整する。
「おはようございます」
鞄を置きながら声をかける。
「おはようございます」
暁がパソコンに視線を向けたまま返した。カタカタカタ、とパソコンを打つ音。碧は唇を引き締めて、ガタンと椅子に座った。少し乱暴な音が出た。
絶対に許さない。
あんたのこと、大嫌いだ。
再会してから今までで、たぶん唯一本音で言われた言葉。思い出すと、胃が引っかかれたように痛くなる。
当然だ。それだけのことをしたんだから。
二十二歳の碧がした恋人の守り方は、とんでもなく不器用だった。しかも翌日に引っ越すなんて、ずいぶんパワーがあったんだなと思う。若いからできた。今同じことがあったとしても、そんなすぐに行動に移せる自信はない。なんだかんだいって、恋は若さと相性がいい。
彼の将来を守りたいだなんて、今思い返すと独善的な考えだなとも思う。
でもそれは袴木との果たすべき約束であり、碧なりのプライドだった。
一年目で横道にそれてしまったとはいえ、碧は教師だったのだから。
それにしても八年も経つと、自分のことなんだけどどこか他人事のようにも思えるものだ。
パソコンでメールをチェックしながら、そんなことを考えていた。まだ仕事を始めて二日目だから、自分宛のメールはほとんどない。
社会人一年目で教師になって、その後も塾の講師として働いていた碧には会社員の経験がない。広いフロアでパソコンに向かっていると、三十路を過ぎてはじめて社会人になったようにも感じる。
とりあえず、なにからやっていけばいいんだろう? 昨日はオリエンテーションのようなことばかりで、この部署がどんな仕事をしてるのかもわかってない。
碧のそんな考えを読み取ったかのように、暁が声をかけた。
「久松さん」
はい、と振り向く。暁がこちらを見ている。昔のまっすぐな眼差しと似てるけれど、どこかちがう。感情のない目。
いい加減思い知らないといけない。暁とはたしかに一時恋人同士だった。だけどあれから八年も経って、碧にもいろんなことが起こった。それは彼も同じだろう。
もう、ただの職場の上司と部下なんだ。もともとそれを理解したからこそ、自分はここにいる。
指導教員に呼ばれたら、すぐに立ち上がってデスクまで行くこと。
新人時代に教えられたそんなフレーズがよみがえって、碧は暁のそばに小走りで近づく。
「なんでしょうか」
暁がじっと碧を見上げる。すぐに話し始めるかと思いきや、あまりにも長く見つめられるので少しまごついた。
「あの」
暁はハッとしたように目をそらすと、
「うちの部署の仕事を覚えてもらいます。これを見てください」
事務的な口調で持っていた資料を渡した。左上がホチキスで止められているプリントの束。
「これがうちの部署のメイン商材です」
碧はパラ、とプリントの一枚目をめくる。
学習ソフト「ヒラメキ」。小学生から高校生までがターゲット層の教材で、学習塾の自習室に提供する法人用と、自宅で勉強する生徒に提供する個人用がある。
「うちはヒラメキの内容を企画する部署です。たとえば、深見さんのデスクにある人形」
セーラー服の美少女フィギュアに、暁が視線を寄こす。
「生徒が勉強に飽きないように、ソフトの中にああいうキャラクターを随所に入れることを考えたりもします」
碧はようやく納得した。
「だからあの人形が飾られてるんですね」
「さぁ。本人の趣味なんじゃないですか」
暁は冷たく言った。
「…………」
ここで「え~」と返すくらい距離が近いわけでもないので黙っている。そのとき、
ピリリリリ。
携帯の着信が鳴った。暁がジャケットの内側に手を伸ばして携帯を取り出した。
「はい遠野です。お世話になっております。いえ、こちらこそありがとうございました」
話しながら片手でパソコンに向かってカタカタとキーを叩く。
「はい、弊社もその方向で検討していまして。できれば今週中に一度お会いしたいんですが」
碧が隣にいることなんて忘れているかのように話す暁をじっと見ていた。
大人になったんだ、暁。
昨日も感じたことを、今日も思う。碧のいない時間に、彼はこんなにも大人になっていた。
やっぱり、どんなに嫌われてもやっぱり、この姿を見ることができてよかった。
「おっはよーございます」
声に振り返ると、鞄をブンブンと振り回しながらユナが歩いて来た。楽しそうに笑って、
「あー、ひぃちゃん昨日大丈夫だったぁ? 先帰っちゃって~」
と、まるで生徒のような口調で話しかけてくる。この子は社会人としてこれでいいのかと思いながらも、どこか憎めず力なく笑う。
「すみません、ご迷惑おかけして」
「びっくりしたんだからぁ。リーダーもさ、あの後すっごい勢いで~」
「ユナさん」
いつの間にか通話を切った暁が片手を上げてユナを手招きする。
「ちょうどよかった。この資料のバージョンが古いので、アップデートされてるものをくれませんか」
暁の説明に、ユナがハァイと頷く。碧は二人のやり取りを見ながら考えた。
あの後すっごい勢いで~
つづく言葉はなんだったんだろう。