元教え子は現上司
 心臓がびくびくと鳴って、落ち着けるために背を向けた。
 蛇口をひねる。洗い終わったマグカップをもう一度水で撫でて、
「同じ部署だし、一緒にいるだけじゃないですか?」
 ジャアアアア。
 水が勢い良く流れて、言葉が飲み込まれる。ユナの言葉を思い出す。

 ひぃちゃんてさ、リーダーのこと好きなの~?

 思えば、どうしてそんなこと聞いたんだろう。

 さくらんぼちゃんが悲痛な声を上げる。
「みんな言ってるんです。ユナさん男性から人気あるのに誰とも付き合わないのは、遠野さんのことが好きだからだって」
 噂では、とさくらんぼちゃんが重ねてつぶやく。
「遠野さん、まだ二年目なのにすごくがんばってリーダーになったのは、ユナさんのためだって。早く昇進してユナさんと結婚するんじゃないかって」
 つる、と指先からマグカップが滑る。はっとしてシンクに落ちる前に受け止める。

 一目惚れかなぁとおもって。ウチのリーダーモテるからなぁ。

「なので、久松さんからユナさんに聞いてもらいたいんです。お二人はどういう関係なのか」
 キュッ。
 蛇口を捻ると耳障りな甲高い音がした。

 振り返ってさくらんぼちゃんを見る。暁と同じくらいの歳だろうか。頬がいっそう赤くなって、目も潤んでいる。

 この子、必死なんだな。

 碧は笑顔を作って言った。
「ごめんなさい。ユナさんに聞きたいことは、ご自分で聞いたほうがいいかとおもいます」

 さくらんぼちゃんがエッと小さく言って眉を寄せる。細い片腕が自分を守るように腰のあたりの服を掴んで、そこだけサマーブラウスがグシャリと寄っている。

 碧は笑顔を保ったまま、
「それにもしユナさんが付き合ってる、と言ったとしても、それが本当か限らないじゃないですか」
「どういうことですか」
 ジロッとさくらんぼちゃんが睨むように見る。ふてくされた子どものような顔。怒るよりもなんだか宥めたくなる。
 あのまま教師を続けていたら、こんな子の恋愛相談を聞くこともあったかもしれない。

「おとなは、嘘をつくから」

 資料室で交わした約束。なにもなかったことにする代わりに、碧は恋を失った。

 そっと笑う。
「だから、本当に気になるんだったら、自分でたしかめたほうがいいです」
 そうすれば、もしかしたら。
「ちがった結末になるかもしれませんよ」
 さくらんぼちゃんは少しの間黙って、水に濡れたマグカップをじっと見ていた。なにかを考えるように。

 やがて小さく頷いて、
「そうですね。すみませんでした、変なこと言って」
 そう言うと、おずおずと笑みを浮かべた。
「失礼しました」
 ペコッと頭を下げて給湯室を出て行く。職員室から出ていく生徒みたいだ。

 ドアが閉められた瞬間、涙がパタッと頬を落ちた。片手で顔を覆うと、きつく唇を噛む。

 なんで泣いてるのか自分でもよくわからない。いや、わかるような気はするけど、そこにたどり着くわけにはいかない。

 熱い涙は意思とは関係なく落ちてきて、声が外に漏れないよう、それだけを気にし続けていた。
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