元教え子は現上司
 トントン、とノックをしてドアを開ける。十人くらい収容できそうな会議室。椅子の背もたれに体を預けて斜めに座っていたフカミンが振り返った。
「あーきたきたー」
 いつの間に帰ってきたのか、その隣にはユナが座っていた。ホワイトボードに向かって暁がなにか書いている。

「今ね、あたらしいお客さん向けの教材を考えてたんだ」
 フカミンが笑顔で説明する。
「遠野君とユナちゃんが行ってきた学習塾なんだけど、全国的にeラーニングを始めたいんだって。で、今までのパッケージASPじゃなくて、オリジナルのソフトを作ってほしいんだってさ」
「この話すすめるのチョー大変だったんだからぁ。中村サンのとこに何度も話に行ってぇ」
 まいっちゃった~と首を振るユナに、フカミンがエライエライと頷く。

「ソフトの立ち上げですか」
 碧は椅子に座りながら尋ねた。既存の商品ではなく、一からオリジナルソフトを作りたいなんて、ずいぶん大きな話だ。
「どこの塾なんです?」
「ここです」
 それまで黙っていた暁が言った。視線を向けると、暁がホワイトボードに字を書いていく。小学生の男の子のような、クセのある鋭角な筆跡。

 字って大人になっても変わらないんだ。

 テストの文字や、大学ノートの切れ端に書かれた感想文。記憶の中の彼の字と一致しておもわず笑いそうになってた。けれど書き進められた文字を認識して笑みは消えた。

 暁が振り返った。冷たい目が無表情に碧を見下ろしている。

 紅林学院
 
 ホワイトボードにはそう書かれていた。 

「ひぃちゃん知ってる? よくCM流れてるよ。月9のさ、前の前のやつ、アレ出てた子が生徒役で」
 フカミンの言葉に反応できず、呆然と暁を見返す。暁はゆっくりと笑った。
「久松さんはよく知ってるんじゃないですか?」
 もしかしたら、再会してからはじめてかもしれない。暁の笑った顔を見るのは。
「前に働いていたところなんだから」
 エーッとユナが叫ぶ。
「なんだそうなの? ひぃちゃんクレバだったんだぁ」
 
 どくん、どくん。心臓が強く鳴る。ななめ上から、碧を見下ろす視線を感じる。目を合わせられなかった。

「ひぃちゃん大丈夫? 真っ青だよ」
 フカミンが心配そうに顔をのぞきこむ。碧は辛うじて頷く。

 落ち着け、落ち着け。
 自分に言い聞かせる。

 関係ないはずだ、職場に出向くわけでもないし。ただあそこに教材を提供するだけ。ただそれだけのこと。

 そう考えても、暴れる鼓動は納得しなかった。無意識に鎖骨あたりを撫でさする。
「今後の担当なんですけどね」
 暁は碧の様子を気にも留めず、淡々と進行する。
「僕と久松さんで行おうかとおもってます」 

 呼吸が止まった。
 鎖骨を抑えたまま、顔を上げることができない。

「エーッ。ユナが契約したのにっ」
 ユナが不満そうな声をあげる。
「すみません。幹部とも話して決めたんです。最初の取引だし、規模が大きいので責任者の僕と、先方の事情に詳しい久松さんがいいだろうと」
 碧は反応できずにいた。体の血が水に入れ替わったように、手足が冷たくなっていく。

 これは復讐なんだろうか。

 ふいにそんな考えが頭をよぎる。
 碧を雇ったのも、紅林学院の担当を任せるのも、全部八年前の復讐なんだろうか。彼の手を振り払ったことへの。
 そうおもって、すぐにそんなまさかと考えを打ち消す。前の職場でなにがあったかなんて誰にも話してない。

 だとしたら、本当に碧を信頼して担当に指名してくれたんだろうか。

 ぎこちなく顔を上げて暁を見る。目が合った。その顔は無表情で、もう彼が何を考えているのかはわからない。八年前は、その目に映る喜びも哀しみも、手に取るようにわかったのに。

 わからないけど、もし、彼の言葉に嘘がなかったら?

 口を開けると、緊張でカラカラに乾いていた。泣いて赤くなった目がまだ痛い。
「わかりました」
 かすれた声。小さいけれど、でも言っていた。

 踏ん張らないといけない。八年前とはなにもかも変わってしまった。それなら、ここからがんばるしかない。
 そしていつか、またあの頃のように無邪気に漫画の貸し借りができるような関係に戻れたら、もうそれ以上は望まない。

 恋じゃなくていい。職場の同僚として、いつかまた笑った顔が見たい。その日のために、がんばろう。

 それが碧に今、彼のためにできる唯一のことだと思った。
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