元教え子は現上司
翌日。打ち合わせに連れて行かれたのは、校舎ではなく本部のほうだった。ロゴマークの赤い木が二本、ガラス張りのビルにワッペンのように貼り付けられている。
赤い木は受験生たちを迎える門。かの東京大学の赤門にも似たこの二つの木が、受験生を志望校へと導く門となるように。そんな由来があることを、入ったばかりの頃この本部のどこかで教えられた。
碧が本部に足を踏み入れるのはそのとき以来だ。グーグル地図を印刷してきておいてよかったと思うくらい、場所もうろ覚えだった。
二重になっている自動ドアをくぐりながら、鞄に地図をしまう。
紅林学院。通称クレバ。全国に三八〇〇教室を展開するフランチャイズ学習教室。生徒数は全国で二十四万人、今年度上期の売上は前期比十パーセント増の三十二億円。株主への配当は十五期連続で倍増予定。この業界でも最大手と言っていい業績を積み上げている。
そんな四季報からの受け売りより、もっと碧の記憶に残るのは、夜中まで受験勉強に勤しむ生徒たちの横顔や、同僚たちとくり返し行う模擬授業や、学校が休みの間に行う夏期講習や冬期講習のプログラム作りだった。本部は受講者数と生徒の継続率ばかりを気にしていたけれど、現場には泥臭くて真剣なドラマも熱もあった。
少なくともあの頃は、そう信じていた。
校舎と本部の外観は全くちがう。
磨かれて艶めく床。高い吹き抜けの天井。ホテルのロビーのようだ、と初めてこの建物に足を踏み入れた時と同じ感想を抱く。正面には受付嬢が三人官女のように半円のカウンターの中におさまっていた。
受付の脇にあるエレベーターホールをじっと見る。エレベーターから降りてきてフロアを歩く人々のなかに、知ってる顔はなかった。
打ち合わせが本部と聞いてからずっと、碧の心臓は怯えるようにビクビクと揺れ続けている。でもそれも、杞憂のようだ。ほっとため息をこぼしたら、強張っていた肩の力がぬけた。
「大丈夫ですか」
ふいに隣から声がかかった。顔を上げる。暁がわずかに眉間にシワを寄せて尋ねた。
「顔色悪いんじゃないですか」
思わず足を止める。
暁に気遣われた?
驚きすぎると却って無反応になる。黙ってまじまじと暁を見返すと、暁はハッとしたように正面を向いた。
「違うならいいです」
そうぶっきらぼうに言った耳が少し赤く染まっているような気がして、頭の後ろと両耳が熱くなった。なにか返そうと思う間もなく、暁は大股で受付まで進んでいった。受付嬢が三人立ち上がって礼をした。
受付の左右に配置された長椅子に座りながら暁を待つ。受付を終えてもどってきた暁は、隣には座らず椅子のななめ前あたりに立っていた。携帯を一瞬見てすぐしまったり、腕時計を見たり、腕を組んだりと、一定の動きで止まらない。
落ち着かないなぁ。
授業中、あちらこちらに視線を飛ばしては隙を見て手紙を書いたり携帯を見たりする生徒たちが頭に浮かんだ。そのなかに十六歳の暁もいて、おもわず口元が緩んだ。
無意識に言っていた。
「座ったら」
暁は面談の順番を呼ばれた生徒のようにびくりとした顔で碧を見下ろして、そのまま固まった。
あ、まずい、とおもったけどもう遅い。張りつめた沈黙が落ちる。
やがて暁はゆっくりと足を動かし、隣に座った。暁の重みが碧の腰掛けている部分にも振動する。
暁は碧に話しかけようとしなかった。碧もなにを言えばいいかわからず、自分の爪を見ながら時間をやり過ごす。たまにはネイルでもしてみようか。ユナの爪はきれいだった。
「ここは、来たことあるんですか」
ふいに隣から声がかかった。ドキリとして、折り曲げていた指を丸めこむ。
暁は俯いたまま言った。
「職場でしょ、前の」
碧は急いで頷くと、伸ばしていた足を引っこめてそろえた。
「本部は最初の研修のときに来ただけです。講師は基本的に自分の校舎以外は行きませんから」
ふーん。暁は聞いておいて興味の無さそうな相槌を打つ。また会話が止まる。
それにしても遅いな、まだ担当の人は来ないのかな。腕時計に目をやると、
「前はどこにいたんですか」
「え?」
終わったと思っていた会話が再び始まって、少し混乱する。
「だから、校舎」
暁は指先で自分の下唇をつねった。あ、イライラしてる。真意はわからないものの、慌てて答えた。
「千葉東校です」
同業種のなかには同じ系列の校舎を授業ごとに渡り歩く塾もあったけど、紅林は校舎ごとに専属の講師が就いていた。
移動が無いのは楽だったけど――同じ校舎だからこそ関係が壊れたときに逃げ場がなかった。
「この前の人たち、同じ校舎のひとなんですか」
その言葉に、思考が横にそれていた碧は暁を振り返った。暁は碧を見つめていた。碧の正面に座っていた男性が受付で名前を呼ばれて立ち上がる。
碧はもう一度腕時計を見た。
「遅いですね、担当者の方。時間あってます」
「あのさ」
ふっと影が差す。腕時計が見えなくなった。
時計の文字盤ごと、手首をつかまれていた。
驚くくらい近くに暁の顔がある。
心臓がドッと鳴る。周囲のざわめきも消えた。つかまれた手首が、あつい。
そのときだった。
「お待たせしました」
声にハッとして、手を振り払う。足がもつれかけて、お腹に力を入れて立ち上がった。
なにやってるの、わたし。
「お世話になります、株式会社ウィング・エデュケーションの久松と」
担当者の顔を見る。言葉が口の中で消えていった。
目の前に立つ男が微笑む。めがねの奥の目が細められた。
「紅林学院の小川です」
膝から力が抜けそうになって、足元が滑る。ガリッとヒールが床を引っかく耳障りな音がした。倒れないのがふしぎだった。いっそ気を失ってしまえたらいいのに。
小川さん。
口から零れ出た言葉を拾うように、暁が険しい顔で振り向いたことにも気がつかなかった。
赤い木は受験生たちを迎える門。かの東京大学の赤門にも似たこの二つの木が、受験生を志望校へと導く門となるように。そんな由来があることを、入ったばかりの頃この本部のどこかで教えられた。
碧が本部に足を踏み入れるのはそのとき以来だ。グーグル地図を印刷してきておいてよかったと思うくらい、場所もうろ覚えだった。
二重になっている自動ドアをくぐりながら、鞄に地図をしまう。
紅林学院。通称クレバ。全国に三八〇〇教室を展開するフランチャイズ学習教室。生徒数は全国で二十四万人、今年度上期の売上は前期比十パーセント増の三十二億円。株主への配当は十五期連続で倍増予定。この業界でも最大手と言っていい業績を積み上げている。
そんな四季報からの受け売りより、もっと碧の記憶に残るのは、夜中まで受験勉強に勤しむ生徒たちの横顔や、同僚たちとくり返し行う模擬授業や、学校が休みの間に行う夏期講習や冬期講習のプログラム作りだった。本部は受講者数と生徒の継続率ばかりを気にしていたけれど、現場には泥臭くて真剣なドラマも熱もあった。
少なくともあの頃は、そう信じていた。
校舎と本部の外観は全くちがう。
磨かれて艶めく床。高い吹き抜けの天井。ホテルのロビーのようだ、と初めてこの建物に足を踏み入れた時と同じ感想を抱く。正面には受付嬢が三人官女のように半円のカウンターの中におさまっていた。
受付の脇にあるエレベーターホールをじっと見る。エレベーターから降りてきてフロアを歩く人々のなかに、知ってる顔はなかった。
打ち合わせが本部と聞いてからずっと、碧の心臓は怯えるようにビクビクと揺れ続けている。でもそれも、杞憂のようだ。ほっとため息をこぼしたら、強張っていた肩の力がぬけた。
「大丈夫ですか」
ふいに隣から声がかかった。顔を上げる。暁がわずかに眉間にシワを寄せて尋ねた。
「顔色悪いんじゃないですか」
思わず足を止める。
暁に気遣われた?
驚きすぎると却って無反応になる。黙ってまじまじと暁を見返すと、暁はハッとしたように正面を向いた。
「違うならいいです」
そうぶっきらぼうに言った耳が少し赤く染まっているような気がして、頭の後ろと両耳が熱くなった。なにか返そうと思う間もなく、暁は大股で受付まで進んでいった。受付嬢が三人立ち上がって礼をした。
受付の左右に配置された長椅子に座りながら暁を待つ。受付を終えてもどってきた暁は、隣には座らず椅子のななめ前あたりに立っていた。携帯を一瞬見てすぐしまったり、腕時計を見たり、腕を組んだりと、一定の動きで止まらない。
落ち着かないなぁ。
授業中、あちらこちらに視線を飛ばしては隙を見て手紙を書いたり携帯を見たりする生徒たちが頭に浮かんだ。そのなかに十六歳の暁もいて、おもわず口元が緩んだ。
無意識に言っていた。
「座ったら」
暁は面談の順番を呼ばれた生徒のようにびくりとした顔で碧を見下ろして、そのまま固まった。
あ、まずい、とおもったけどもう遅い。張りつめた沈黙が落ちる。
やがて暁はゆっくりと足を動かし、隣に座った。暁の重みが碧の腰掛けている部分にも振動する。
暁は碧に話しかけようとしなかった。碧もなにを言えばいいかわからず、自分の爪を見ながら時間をやり過ごす。たまにはネイルでもしてみようか。ユナの爪はきれいだった。
「ここは、来たことあるんですか」
ふいに隣から声がかかった。ドキリとして、折り曲げていた指を丸めこむ。
暁は俯いたまま言った。
「職場でしょ、前の」
碧は急いで頷くと、伸ばしていた足を引っこめてそろえた。
「本部は最初の研修のときに来ただけです。講師は基本的に自分の校舎以外は行きませんから」
ふーん。暁は聞いておいて興味の無さそうな相槌を打つ。また会話が止まる。
それにしても遅いな、まだ担当の人は来ないのかな。腕時計に目をやると、
「前はどこにいたんですか」
「え?」
終わったと思っていた会話が再び始まって、少し混乱する。
「だから、校舎」
暁は指先で自分の下唇をつねった。あ、イライラしてる。真意はわからないものの、慌てて答えた。
「千葉東校です」
同業種のなかには同じ系列の校舎を授業ごとに渡り歩く塾もあったけど、紅林は校舎ごとに専属の講師が就いていた。
移動が無いのは楽だったけど――同じ校舎だからこそ関係が壊れたときに逃げ場がなかった。
「この前の人たち、同じ校舎のひとなんですか」
その言葉に、思考が横にそれていた碧は暁を振り返った。暁は碧を見つめていた。碧の正面に座っていた男性が受付で名前を呼ばれて立ち上がる。
碧はもう一度腕時計を見た。
「遅いですね、担当者の方。時間あってます」
「あのさ」
ふっと影が差す。腕時計が見えなくなった。
時計の文字盤ごと、手首をつかまれていた。
驚くくらい近くに暁の顔がある。
心臓がドッと鳴る。周囲のざわめきも消えた。つかまれた手首が、あつい。
そのときだった。
「お待たせしました」
声にハッとして、手を振り払う。足がもつれかけて、お腹に力を入れて立ち上がった。
なにやってるの、わたし。
「お世話になります、株式会社ウィング・エデュケーションの久松と」
担当者の顔を見る。言葉が口の中で消えていった。
目の前に立つ男が微笑む。めがねの奥の目が細められた。
「紅林学院の小川です」
膝から力が抜けそうになって、足元が滑る。ガリッとヒールが床を引っかく耳障りな音がした。倒れないのがふしぎだった。いっそ気を失ってしまえたらいいのに。
小川さん。
口から零れ出た言葉を拾うように、暁が険しい顔で振り向いたことにも気がつかなかった。