元教え子は現上司
その日、碧は資料室に残って次回の授業の資料を探していた。生徒が入ってこない資料室には、教師用の資料が科目ごとに並べてある。その資料を見ながらテストの内容を決めたり、次の授業の進め方を考えたりする。同世代のいない職員室よりも気が楽だし必要なものがそろっているので、碧はほとんどの時間をこの資料室で過ごしていた。
「先生」
ノックと共に、扉が開く。
「探しました」
振り返ると暁が立っていた。まっすぐにこちらを見る目。碧はすぐに視線をそらして、
「どうしたの。わかんないところあった?」
本棚に向き直って、資料を探し続けるフリをした。心がざわざわと音を立てる。
ピシャンと扉の閉まった音を背中に聞く。びくん、と鼓動が揺れた。
「先生、なんで連絡くれないの」
暁は感情の読めない声で言った。碧は手近な資料を棚から引き抜き、パラパラとページをめくる。鼓動が速まる。
「ああいうの困るよ」
少女漫画の感想文は大学ノートの切れ端だった。ノートの横線をななめに横断した数字の番号と英数字の羅列、アットマーク、ドコモ。
携帯の電話番号とメールアドレスが書いて寄越されていた。
連絡ください、とかメール待ってます、とか、こちらの顔色を伺うような文章はなにもない。どこか挑戦的にも見えるその文字は、ただの冗談じゃないことを感じさせて、それが余計に困惑させた。
「俺の気もち知ってるでしょ」
きた。
本棚を持つ手が微妙に震えるのを、握りこぶしを作って抑える。学生時代特別モテたわけじゃない。こんなときに笑ってかわせるスキル、持ち合わせてなかった。
だけどそんなこと言ってられない。相手は教え子なのだ。
クルッと振り向いて、いっそ睨んで見えるくらい目を眇めた。
「やめてくれない? 私先生なのよ。遠野君のことは、教え子以上には」
そこから先は言えなかった。じっと止まっていた暁が、野生動物のような俊敏な動きで。
バン、と本棚に両手を突いた。え? と思う間もない。
唇にやわらかい感触。キスされていた。
「――――」
真っ白。言葉が頭に浮かばない。
なに、これ。
暁の片手が頬をなでる。ビクッと身を引こうとしたら、もう片方の手で抑え付けられた。おおきい手、と思って、直後ようやく意識が覚醒した。
パンッ。
体罰は懲戒免職。指導教員に言われた言葉だ。
今の時代、どんなことが起きても叩いたら負けだからね。ぜったいに手を出しちゃだめだよ。
言葉が機械的に頭をめぐったけど、高鳴る胸の音にかき消された。掌が赤くなって震えている。渾身の平手打ち。学生時代に付き合っていた彼氏に浮気されて以来の。だけど威嚇できたのは一瞬で、暁は頬を抑えながらふたたび顔を近づけてきた。
「ちょっと……やめて!」
マンガだったら今ので逃げるのに! 現実は、女性が放った一撃くらいじゃ男に敵わないと思い知る。
男。そうだ。
彼は、遠野暁は男なんだ。自分とはちがう性をもつ、おとこ。
ドクンと鼓動がひとつ鳴る。開けてはならない箱を開いてしまったような気分だった。未成年とか生徒とか、不可侵な気もちにさせる外側の部分がごっそり剥がれて、暁というひとりの人間と向かい合っている気がした。
そんな風に思うべきじゃなかった。せめて目を、合わせなければよかった。
でも、碧は見てしまった。自分を見つめるその目を覗き込んでしまった。
黒くて形のきれいな目。
そのなかに、碧が映ってる。自分自身と目が合った。赤い頬。潤む目。動揺して、とまどって、それと、あと。
先生の仮面がとれて、女の顔をしている自分がいた。
なにこれ。
暁が頬に落ちる髪を両耳にかける。肩が大きく揺れた。
「さわん、ないっ」
「好きだ」
暁がはっきりと言う。そのままの姿勢で停止する。
「あんたが好きなんだ、先生」
暁が碧を抱きしめる。運動部の子たちが試合に勝ったときにするのとはちがう、独特の熱をもつ抱擁。シャツ越しに重なる腕は大人の男より細いのに、自分より固くて違う匂いがした。
鼓動が熱くはやい。どちらのものかわからず、震えた息を吐いた。
どうしてなんだろう。一瞬前まではたしかに抵抗していたはずなのに。
まるでずっと前からそうしていたように、彼の腕のなかにおさまっている。
黒い目が碧を見つめる。体の奥まで見透かすような、どこか官能的な眼差し。
捕まった、とおもった。
あんな一瞬で、捕らえられてしまった。
サッカー部のかけ声がグラウンドから聞こえる。廊下の向こうでは、生徒たちが笑いながら走っていった。
観念するように、考えを遮断するように目を閉じると、唇に熱い唇の感触が降ってきた。少し薄い背中に手を伸ばす。固い肩甲骨に、胸が熱く甘くうねった。
秘密の時間が、始まった。
「先生」
ノックと共に、扉が開く。
「探しました」
振り返ると暁が立っていた。まっすぐにこちらを見る目。碧はすぐに視線をそらして、
「どうしたの。わかんないところあった?」
本棚に向き直って、資料を探し続けるフリをした。心がざわざわと音を立てる。
ピシャンと扉の閉まった音を背中に聞く。びくん、と鼓動が揺れた。
「先生、なんで連絡くれないの」
暁は感情の読めない声で言った。碧は手近な資料を棚から引き抜き、パラパラとページをめくる。鼓動が速まる。
「ああいうの困るよ」
少女漫画の感想文は大学ノートの切れ端だった。ノートの横線をななめに横断した数字の番号と英数字の羅列、アットマーク、ドコモ。
携帯の電話番号とメールアドレスが書いて寄越されていた。
連絡ください、とかメール待ってます、とか、こちらの顔色を伺うような文章はなにもない。どこか挑戦的にも見えるその文字は、ただの冗談じゃないことを感じさせて、それが余計に困惑させた。
「俺の気もち知ってるでしょ」
きた。
本棚を持つ手が微妙に震えるのを、握りこぶしを作って抑える。学生時代特別モテたわけじゃない。こんなときに笑ってかわせるスキル、持ち合わせてなかった。
だけどそんなこと言ってられない。相手は教え子なのだ。
クルッと振り向いて、いっそ睨んで見えるくらい目を眇めた。
「やめてくれない? 私先生なのよ。遠野君のことは、教え子以上には」
そこから先は言えなかった。じっと止まっていた暁が、野生動物のような俊敏な動きで。
バン、と本棚に両手を突いた。え? と思う間もない。
唇にやわらかい感触。キスされていた。
「――――」
真っ白。言葉が頭に浮かばない。
なに、これ。
暁の片手が頬をなでる。ビクッと身を引こうとしたら、もう片方の手で抑え付けられた。おおきい手、と思って、直後ようやく意識が覚醒した。
パンッ。
体罰は懲戒免職。指導教員に言われた言葉だ。
今の時代、どんなことが起きても叩いたら負けだからね。ぜったいに手を出しちゃだめだよ。
言葉が機械的に頭をめぐったけど、高鳴る胸の音にかき消された。掌が赤くなって震えている。渾身の平手打ち。学生時代に付き合っていた彼氏に浮気されて以来の。だけど威嚇できたのは一瞬で、暁は頬を抑えながらふたたび顔を近づけてきた。
「ちょっと……やめて!」
マンガだったら今ので逃げるのに! 現実は、女性が放った一撃くらいじゃ男に敵わないと思い知る。
男。そうだ。
彼は、遠野暁は男なんだ。自分とはちがう性をもつ、おとこ。
ドクンと鼓動がひとつ鳴る。開けてはならない箱を開いてしまったような気分だった。未成年とか生徒とか、不可侵な気もちにさせる外側の部分がごっそり剥がれて、暁というひとりの人間と向かい合っている気がした。
そんな風に思うべきじゃなかった。せめて目を、合わせなければよかった。
でも、碧は見てしまった。自分を見つめるその目を覗き込んでしまった。
黒くて形のきれいな目。
そのなかに、碧が映ってる。自分自身と目が合った。赤い頬。潤む目。動揺して、とまどって、それと、あと。
先生の仮面がとれて、女の顔をしている自分がいた。
なにこれ。
暁が頬に落ちる髪を両耳にかける。肩が大きく揺れた。
「さわん、ないっ」
「好きだ」
暁がはっきりと言う。そのままの姿勢で停止する。
「あんたが好きなんだ、先生」
暁が碧を抱きしめる。運動部の子たちが試合に勝ったときにするのとはちがう、独特の熱をもつ抱擁。シャツ越しに重なる腕は大人の男より細いのに、自分より固くて違う匂いがした。
鼓動が熱くはやい。どちらのものかわからず、震えた息を吐いた。
どうしてなんだろう。一瞬前まではたしかに抵抗していたはずなのに。
まるでずっと前からそうしていたように、彼の腕のなかにおさまっている。
黒い目が碧を見つめる。体の奥まで見透かすような、どこか官能的な眼差し。
捕まった、とおもった。
あんな一瞬で、捕らえられてしまった。
サッカー部のかけ声がグラウンドから聞こえる。廊下の向こうでは、生徒たちが笑いながら走っていった。
観念するように、考えを遮断するように目を閉じると、唇に熱い唇の感触が降ってきた。少し薄い背中に手を伸ばす。固い肩甲骨に、胸が熱く甘くうねった。
秘密の時間が、始まった。