元教え子は現上司
 碧はさきほどから手元に用意していた資料に、小川の一言一句を全て書き記す勢いでメモを取っていた。なにかしていないと、混乱で叫び出してしまいそうだった。一心不乱に手を動かしていれば、指先が震えることもごまかせる。
 
暁が鞄にしまっていたノートパソコンを取り出すと、今まで会社が作ってきたソフトのデモンストレーションをしてみせた。小川はウンウンと腕を組んで頷く。

「いいですね。できれば生徒用のページのほかに講師用のページもあって、生徒の入退室管理ができるような仕組みも入れたいんですよ」
「その場合はIDを二種類ご用意することも可能です」

 碧の気もちをよそに、男二人は着々と打ち合わせを進めている。これなら碧はいなくてもいいんじゃないかと思えた。次回からはやっぱりユナに来てもらうことはできないか。昨日の決意はどこへやら、そんなことを考える。

「久松先生は? どう思います?」
 小川が微笑みながら水を向ける。碧は強張った笑みを顔に貼り付けて、
「私はもう」
 先生じゃないので。そう言おうとして、
「久松。元、現場の人間としてなにかないか」
 暁がパソコンのキーを叩きながら言った。小川が暁を見る。その顔にもう笑みはなかった。
「彼女はうちの社員ですので」
 暁はパソコンに向かったまま、さらりと言った。

 とくん。 

 ここに来てはじめて、鼓動がおだやかに鳴った。暁がパソコンから顔を上げて、碧を見る。目が合うと、暁は薄く笑った。

 うん、やっぱりこんな顔は知らない。だけどいい。
きっと八年の間に、碧の知らない顔がたくさんある。だけど今はそれがいい。だれかと近すぎるのはもういやだった。

「そうですね」
 そっと息を吸うと、皮膚がピクピクと小刻みに揺れた。落ち着いて、落ち着いて。暴れる馬をなだめるように自分に言い聞かせながら、左上がホチキスで留められた資料をバラバラとめくる。資料の最初のほうに戻って、

「講師用ページもあるなら、全校舎職員の交流の場となるようなページがあるといいかもしれません」
「SNSか」
 頷きながら答える。
「校舎によっては同じ科目を持つ先輩が少ない校舎もあると思うんですね。そういうときに講師同士の交流がある方が良いかと思います。たとえばスカイプを使って模擬授業を見せ合うとか」
 
暁が頷きながら資料にメモをしていく。無意識に暁の筆跡を目で追っていると、
「たしかにスタッフ同士の交流、は大事ですね」
 小川がめがねの向こうの目を細めて笑う。言外になにか含んだようなその言い方に、発言を失敗したことを知る。
 
やめて。
碧はペンを握ってないほうの拳を握りしめた。爪が掌に突き刺さっても、力を緩めることができない。小川がなにを言うつもりなのか恐かった。暁の方を見ることができない。

「久松とお知り合いなんですね」
 隣から固い声がした。息を詰めて振り返ると、その目は小川とは対照的にまったく笑ってなかった。なにを考えてるのかわからない顔。
 小川がまた目を細めて笑う。

「ええ。よく知っていますよ」

 ねぇ、と碧に声をかける小川。碧は拳に力を入れたまま俯く。

 なんで、こんなことになってるんだろう。冷たい汗が背中を湿らせていく。吐き気さえ覚えた。

「そうだ。よかったらこの後、三人で食事でもどうですか? これからよろしくという意味で」
 小川がにこやかに言って、聞き間違えかと顔を上げた。小川は笑っていた。瞬間、色々なことが頭を巡る。

 なんで笑えるの?
 あれから私がどんな思いで過ごしたとおもってるの。

 ガタン。

 気がつけば立ち上がっていた。手はもう、傍目にもわかるくらい震えていた。
「すみません。私ちょっと、具合悪いので、帰らせてもらいます」
 打ち合わせ中に、非常識だとわかっているけど耐えられなかった。暁はきっと呆れてるだろう。でもそれでいい。そのほうが、担当からも外してもらえやすいはずだ。

「ほんとに? それは大変だ」
 小川がサッと立ち上がる。
「一緒に帰ろう。送りますよ」

 は?
 信じられない思いで、呆然と小川を見た。

 小川はバタバタと資料をしまいながら、
「ちょうどよかった。二人で話がしたいって思ってたから。待っててね、今タクシー呼んで」
 冗談じゃない。ぼんやりしていた頭が、怒りでクリアになっていく。
 なんなの、このひと。

「大丈夫です」

 はっきりした声。暁だった。
「彼女は俺が責任を持って送っていきます」
 小川がなにか言うより先に立ち上がった。
「部下の面倒見るのも、上司の仕事なんで」
 パソコンをバンと閉じると、手早く資料を鞄に入れた。ぼうっとしている碧を振り返ると、
「久松、行くぞ」
 グイッ。肩を掴むと背中を引き寄せた。その力が思いがけないほど強くて、なにか言う暇もなかった。

「すみません、次回は万全の体勢で臨みますので、今日のところはこれで失礼します」
 小川がなにか言うより早く、碧を押すように歩き始めた。いつの間にか開いていたドアに体を滑り込ませてそっと後ろを振り返ると、無表情の小川がじっとこちらを見ていた。

 ぞくっと体に震えが走って、慌てて前を向いた。
 体に電気が流れたような不快な感覚が走る。

 
 アンタのせいだ!
 
 怒鳴り声、泣き叫ぶ声。いくつもの目。

 強く唇を噛む。

 忘れていかないと、いろんなことを。

 バタンッと閉じたドアから少しでも早く逃げようとするように、折れたヒールでできるだけ早く歩いた。暁は隣
で、そんな碧をじっと見ていた。
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