元教え子は現上司
「すみませんでした」

 紅林学院の最寄り駅。改札口前で碧は暁に頭を下げた。
「もう大丈夫です」
 頭を下げたまま笑顔を作って、顔を上げて。
 くっと息が止まった。

 暁が碧を見ていた。射るような目がまっすぐに碧へと向かう。
 それはまるで高校生の彼のようで、ぶわりと鼓動が揺れた。

「だいじょうぶ、だいじょうぶって」
 なにかを押し殺すように小さな声で、暁がつぶやく。
「あんた、そればっかだよな」
「…………え?」
 言葉の意味が、少し遅れて頭にひびいた。

 暁の後ろを、携帯を耳に当てたサラリーマンが足早に通り過ぎる。すぐ後ろで、はじけるような笑い声。制服を着た高校生の男女が数人通り過ぎていった。電車が到着することを告げるアナウンスが聞こえる。

 暁が一歩こちらに近づいた。びくん。反射的に一歩あとずさって、高さのちがうヒールのせいで足首がグキッと曲がる。痛いはずなのに、なにも感じない。どんどん近づいてくるきれいな目を、魅入られたように眺めていた。

「なにがあったんだよ、俺のいない間に」
 暁が碧の顔を覗きこむ。暁の目がわずかに歪められる。苦しげに。二人の距離はもう、互いの胸と胸が着くほどに近い。

 頭がはたらかない。半分開いた口の中は、空気しか通り過ぎない。心臓が飛び出しそうなくらい揺れ続けて、暁にも伝わりそうだと心配になる。

「あんたに聞きたいことがたくさんあるよ」
 暁がかがみこむ。吐息が鼻先にあたる。

 キス、できそうな距離。

「昨日なんで泣いてたの」
 ささやくような声音に魅了されて、言葉の意味は遅れて届いた。

「きのう?」
 ぼんやりと尋ねると、長い指先がスッと近寄ってくる。けれどそれは、目元に触れる寸前で止まった。
「目、赤かった」
 昨日のことなんてもう大昔のようだ。心の中で呟きながら、同時に思い出す。さくらんぼちゃんの顔。

 ユナさんと遠野さんて付き合ってるんですか?

 さっと目を伏せる。瞬間、雑踏が耳にすべりこんでくる。駆け足。笑い声。急行列車に遅れがでています、という平たい声のアナウンス。

 ヒールが残ってるほうの足を引っこめた。鞄を持つ手に力をこめる。
「泣いてなんかいません」

 もう何年、この子に翻弄されているんだろう。いくつになってもバカだ、私。

「今日はこのまま帰らせていただきます」
 今度はすぐに言葉が出てきた。そのまま改札口へと向かう。ピーッ。どこかのホームで電車が発射する音がする。

「先生」

 聞きまちがえだろうか。そう呼ばれた気がして、背中に震えがはしった。
 頭の中で反響する声を振り払うように改札口を通り過ぎて、階段をかけあがった。
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