元教え子は現上司
 驚きのあまり声も出ずに立ち尽くす碧に、小川は微笑んだまま歩み寄る。その足元には煙草の吸殻と、丸めて捨てられた煙草の空き箱がくしゃくしゃになって捨てられていた。

 なんで。

 最初に浮かんだのはその言葉だった。

 小川は碧の前まで来ると、片手に持っていた袋を目の前に掲げた。ガサリ、という音に視線を向ける。コンビニの袋だった。中に缶ビールが数本入っているのが見える。
「いろいろ買ってきたんだ。飲もうよ」
 小川はめがね越しの目を細めて笑った。
 どっと汗が吹き出る。
「なんでここを知ってるんですか」
 小川は笑った。とても機嫌が良さそうに見えた。

「僕、知り合い多いから。少し時間かかったけど、調べてもらえたよ」
 一瞬で目の前が真っ暗になった。殴られたような衝撃を受け、半歩後ずさる。
 体の震えが止まらなくなり、またも吐き気がこみ上げた。小川は碧を見て微笑んでいる。

 なんでこのひとは笑っていられるんだろう。

「やめてください」
 かすれた声で、ようやく言葉を絞り出す。のろのろと首を振る。動悸が強く、こめかみに刺すような痛みがはしった。

 もうやめて。これ以上私の生活を壊さないで。

 小川が微笑みながら迫ってくる。さっき暁が近づいてきたのとは全然ちがう。全身に鳥肌が立った。

 階段に向かって走る。はだしの足の裏がなにか固い物を踏んだ。皮が剥けてすり切れても、痛みは感じなかった。

「待て!」

 小川の声が追いかけてくる。碧は捕まらないように必死で走った。ガンッとなにかの落ちる音がする。直後、ガンガンガン、と真後ろから音が響く。数メートルの廊下が信じられないほど長く感じた。汗がこめかみや腕から落ちていく。

「キャアッ」
 階段を降りる手前で、後ろから羽交い絞めにされる。抱きしめるというよりは、そのまま絞め殺されそうな強い力。抵抗しようとしても力ではかなわなかった。

「あおい」
 間近に男の顔がある。もう笑ってない。のぞいたことを後悔するような、深い穴が二つこっちを見ていた。ぞっとして固まっていると、声が耳元に侵入する。

「あの遠野ってやつ、なんなの」

 なんなのって。
 汗が首を幾筋もつたって、髪が頬や首筋に貼りついた。また小川が腕に力をこめて、碧は顔を歪める。
「ただの、上司です」
 かろうじてそれだけ答える。
「ほんとにそれだけ?」
 碧は何度も浅く頷く。犬のようにハッハと息が短くなる。ふぅん、と小川が呟いた。
「ずいぶん若いよね。生意気だよ」
 つかまれている両腕を小川がぎゅうっと掴む。痛いのに、恐怖が声を殺す。歯を食いしばって耐えることしかできなかった。心臓がバンバンと肋骨を叩いて、碧の代わりに助けてと悲鳴をあげているようだった。

 小川がふいに微笑んだ。
「でも、まさか碧から来てくれるなんておもわなかったな。やっぱり俺たちは運命なんだね」
 石のように固まる碧に小川は擦り寄ると、ねっとりした声で言った。
「中に入れてよ。ずっと待ってたんだよ」
 小川の肩越しに、部屋に続く廊下が見える。コンビニの袋が廊下に落ちて、缶ビールが数本中から出てきている。散乱した煙草の吸殻と潰れた空き箱。
 そのとき、恐ろしいことに気がついた。

「もしかして、前にも」
 部屋の扉の前に捨てられていた煙草の空き箱を思い出す。小川は微笑んだまま頷いた。
「会いたかったよ」
 手で口を抑える。口の中に胃液の酸っぱい味が広がった。どくん、どくんと心臓が震える。涙がこみあげる。

 なんなの、なんなの。どうして放っておいてくれないの。

「碧」
 男がふたたび腕を伸ばす。伸びてくる腕が、奇怪な生物の触手のように見えた。目をつむる。
「いや――」
 ふいに、後ろから肩を強い力で引かれた。よろめいて廊下に倒れかかる。廊下の壁に手を突いた同じタイミングで、
 ダンッ。
 重い大きな音がした。
 
 振り返ると、小川が顔を手で抑えて倒れていた。手の隙間からうめき声が漏れる。

 その小川と碧の間に立つ、大きな背中。
 荒い息をして上下しているその後ろ姿を、ぼんやりと見ていた。

 そのひとがゆっくりと振り返る。乱れた前髪の向こうから、ぎらっと光る眼が碧を見ていた。警戒を解いてない獣の眼。
 声が出なかった。膝の力が抜けて、ぺたんとその場に座り込む。

 暁。
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