元教え子は現上司
合宿当日。新宿駅のバスロータリーには、予告通り千人近い高校生たちが集まっていた。その人数を見ただけで、くらりと眩暈がおきそうになる。
「小川さん、バス一緒に座りませんか」
「もう小川さんの席は取ってありますんで」
声のする方を見る。見覚えのない同い歳くらいの女性たちは、おそらくちがう校舎の講師だろう。彼女たちに囲まれて、小川が困ったように笑みを浮かべている。
「わかりやすいよなぁみんな」
旅行鞄を提げた同僚が呆れたように言った。碧も頷きながら女性講師たちの固まりを見る。みんな自分たちが引率する立場だということを忘れてるんだろうか。
「久松さんは?」
え? と同僚を見上げる。彼はニヤニヤ笑いながら顎で小川を示した。
「御曹司の息子に興味ないの?」
碧は苦笑いして首を振る。
「私はいい、そういうの」
「そういや彼氏とかいんの? 聞いたことないよなぁ」
ここがいつもの塾とはちがうからだろうか。普段碧のプライベートなんて興味も無さそうなのに、やけにしつこい。碧は同僚を振り切るつもりで生徒たちに向かって両手を上げた。
「はいはーい、みんなバスに乗ってね。お手洗いまだの人はコンビニの隣にあるから、早めに行って来てください」
「せんせー」
生徒の一人が不安げな顔で近づいてきた。
「酔い止め忘れた」
「ちょっとまって」
碧は肩に提げていた鞄を前にもってきて、酔い止めの薬を探す。こういうこともあるかとおもって、一通りの薬は常備している。
「はい、お水かぬるま湯で飲んでね。バスの中ではさっさと寝ちゃいなさい」
「ありがとー」
生徒はほっとしたように笑うと、少し離れたところで待っていた友達のもとに合流した。お互いぶつかり合いながら走るはしゃいだ後ろ姿を見て、たぶん寝ないだろうな、とおもって苦笑する。
彼氏とかいんの?
生徒の背中を見ながら、さっきの質問が頭をよぎる。笑顔の名残が口元から消えていく。
彼氏なんていない。
この先きっと二度といない。
碧。
声が聞こえた気がして、ふっと周りを見渡す。たくさんの高校生たち。ペットボトルのお茶を飲んだり、携帯をいじったり、友だちと話して笑ったり。
あの子はいくつになったんだっけ。あれから七年だから――。
「塾講師というより、教師みたいですね」
ふいに話しかけられて、心臓がドキリと鳴る。驚いて振り返ると、小川がニコニコと笑っていた。
「あ、え……?」
はじめて話しかけられた。とまどって、もしかして誰かと勘違いしてるんだろうか、と訝ると、
「生徒の引率に慣れてらっしゃるんですね、久松先生」
小川が笑ったまま言った。名前を呼ばれて、人違いされてるわけじゃない、と確認する。
「あの、一時期、高校の教師をしてましたので」
笑顔を作りながら小川の後方を見る。塾長をはじめとした女性たちが、じっとこちらを見ていた。
まずい。このひと早く返さないと。
「あの」
「もしよかったら、バス隣に座っても良いですか?」
焦る碧の言葉を遮るように、小川がニコニコ笑って言った。
え?
驚きで固まってると、お願いします、と言うなり碧の肩甲骨あたりをぐっと押して、バスに乗り込む。柔らかな物腰と対照的に、意外なほど力強い手だった。驚いたせいもあって、反論するタイミングを逃してしまった。頭の中で沢山のハテナが飛び散る。
え、とかちょっと、とか言ってる間に碧はバスの席に押しこめられるように座り、小川もドサッと隣に腰を下ろした。その座り方がやっぱりイメージより少し乱暴で、碧は唖然とする。
こちらを向いた小川が笑顔で言った。
「すみません、私もバス酔いするもので。万が一のときに久松先生のような方が隣にいてくださると心強いです」
はぁ、と口の中で答える。まだ混乱している碧をよそに、小川は目を細めて笑った。はじめて見たときと同じ、人のよさそうな笑みだった。
「予想以上に楽しい合宿になりそうですね」
「小川さん、バス一緒に座りませんか」
「もう小川さんの席は取ってありますんで」
声のする方を見る。見覚えのない同い歳くらいの女性たちは、おそらくちがう校舎の講師だろう。彼女たちに囲まれて、小川が困ったように笑みを浮かべている。
「わかりやすいよなぁみんな」
旅行鞄を提げた同僚が呆れたように言った。碧も頷きながら女性講師たちの固まりを見る。みんな自分たちが引率する立場だということを忘れてるんだろうか。
「久松さんは?」
え? と同僚を見上げる。彼はニヤニヤ笑いながら顎で小川を示した。
「御曹司の息子に興味ないの?」
碧は苦笑いして首を振る。
「私はいい、そういうの」
「そういや彼氏とかいんの? 聞いたことないよなぁ」
ここがいつもの塾とはちがうからだろうか。普段碧のプライベートなんて興味も無さそうなのに、やけにしつこい。碧は同僚を振り切るつもりで生徒たちに向かって両手を上げた。
「はいはーい、みんなバスに乗ってね。お手洗いまだの人はコンビニの隣にあるから、早めに行って来てください」
「せんせー」
生徒の一人が不安げな顔で近づいてきた。
「酔い止め忘れた」
「ちょっとまって」
碧は肩に提げていた鞄を前にもってきて、酔い止めの薬を探す。こういうこともあるかとおもって、一通りの薬は常備している。
「はい、お水かぬるま湯で飲んでね。バスの中ではさっさと寝ちゃいなさい」
「ありがとー」
生徒はほっとしたように笑うと、少し離れたところで待っていた友達のもとに合流した。お互いぶつかり合いながら走るはしゃいだ後ろ姿を見て、たぶん寝ないだろうな、とおもって苦笑する。
彼氏とかいんの?
生徒の背中を見ながら、さっきの質問が頭をよぎる。笑顔の名残が口元から消えていく。
彼氏なんていない。
この先きっと二度といない。
碧。
声が聞こえた気がして、ふっと周りを見渡す。たくさんの高校生たち。ペットボトルのお茶を飲んだり、携帯をいじったり、友だちと話して笑ったり。
あの子はいくつになったんだっけ。あれから七年だから――。
「塾講師というより、教師みたいですね」
ふいに話しかけられて、心臓がドキリと鳴る。驚いて振り返ると、小川がニコニコと笑っていた。
「あ、え……?」
はじめて話しかけられた。とまどって、もしかして誰かと勘違いしてるんだろうか、と訝ると、
「生徒の引率に慣れてらっしゃるんですね、久松先生」
小川が笑ったまま言った。名前を呼ばれて、人違いされてるわけじゃない、と確認する。
「あの、一時期、高校の教師をしてましたので」
笑顔を作りながら小川の後方を見る。塾長をはじめとした女性たちが、じっとこちらを見ていた。
まずい。このひと早く返さないと。
「あの」
「もしよかったら、バス隣に座っても良いですか?」
焦る碧の言葉を遮るように、小川がニコニコ笑って言った。
え?
驚きで固まってると、お願いします、と言うなり碧の肩甲骨あたりをぐっと押して、バスに乗り込む。柔らかな物腰と対照的に、意外なほど力強い手だった。驚いたせいもあって、反論するタイミングを逃してしまった。頭の中で沢山のハテナが飛び散る。
え、とかちょっと、とか言ってる間に碧はバスの席に押しこめられるように座り、小川もドサッと隣に腰を下ろした。その座り方がやっぱりイメージより少し乱暴で、碧は唖然とする。
こちらを向いた小川が笑顔で言った。
「すみません、私もバス酔いするもので。万が一のときに久松先生のような方が隣にいてくださると心強いです」
はぁ、と口の中で答える。まだ混乱している碧をよそに、小川は目を細めて笑った。はじめて見たときと同じ、人のよさそうな笑みだった。
「予想以上に楽しい合宿になりそうですね」