元教え子は現上司
 その日は、季節はずれの台風かと思うくらいに雨の強い日だった。教室の窓はバケツいっぱいの水を浴びたように濡れていた。ときおり雷が鳴り、生徒たちも落ち着かない様子で外を見ている。
碧はびしょ濡れの窓をちらりと見た。
 これ以上ひどくなったら塾長と相談して今日は授業を取りやめよう。帰れなくなったら大変だ。そう考えていると、
 
 ガラッ。

 いきおいよく扉が開いた。振り返り、おもわず息を飲む。生徒のだれかがキャッと悲鳴をあげた。

 全身が濡れそぼった女がひとり、立っていた。

 パーマがかかってるらしき髪はカールが水で伸びて、前髪も額に貼り付いて目元が覆われている。彼女のはいているロングスカートの先から雨粒がぽたぽたと落ちて水溜りができていく。近くに座る女性徒が、恐がるように身を引いた。女の血の気を失った青い肌に、赤い口紅だけが目立って見えた。

「あの?」
 ためらいながら声をかける。だれかの保護者だろうか。
 ぼうっと立ったまま動かない女性に向かって、碧はそっと近づいた。
「大丈夫ですか。なにか拭くもの――」
「久松碧ってあんた?」
 びくりとするほど大きな声で彼女は言った。おもわず立ち止まって、おずおずと頷く。
「はい、あの私ですけど」
 やっぱり保護者だろうか。たまにいる、クレームをつけてくる親なんだろうか。
 考えていると、彼女は大股で碧に歩み寄ってきた。水が入ったパンプスが、ぐじゅぐじゅと音をたてる。

 パン!

 教室中に響く高い音。碧はよろめいて机の端をつかんだ。無意識に、片手が頬を触っていた。

 え?
 
 ジン、と頬が熱くなる。直後、痺れるような痛み。叩かれたのだと理解しても、なにがなんだかわからず、呆然とする。
 
 冷たい手が、碧を乱暴に引き上げた。水を含んだ布が体に当たる、直後、
 パン!
 ふたたび頬が火をつけられたように痛んだ。反対の頬だった。勢いによろめいて床に尻餅を着く。
 女が手を振り上げながら叫ぶ。
「アンタのせいだ!」
 グイッ。髪をおもいきり引っぱられ、キャアッと生徒が叫んだ。
「やめろよ!」 
 近くにいた男子生徒数人が立ち上がり、女を羽交い絞めにしようとする。ガタガタンッ。机が大きくずれ、引き出しからプリントや筆箱が散乱する。女は抵抗しながら両腕を振り回す。
「このやろう! ひとの夫に手を出して、ゆるさないよ!」
 
 ガターンッ。
 大きな音をたてて机が倒れる。隣の教室から同僚の講師が慌てた様子でやってきた。
「おい、なんだ!」
「先生たすけて!」
 生徒が叫ぶ。泣いてる子もいた。その時には、女は床に両手を着いて号泣していた。碧はぼうっと座り込んだまま、彼女を見ていた。

 おっと……?
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