元教え子は現上司
「小川さんの奥様だよ」

 講師室の奥。塾長は机に両肘を突いて、その上に乗せた顔をじろりと碧に向けた。目は赤く血走っている。
「奥様……?」
 結婚、したのか。いつの間に? 小川に告白されてから、まだ半年くらいしか経ってない。

 驚きに目を丸くしている碧を、塾長は眉間に深くシワを寄せて見上げる。まるで汚い物を見るような目つきだった。
「どう責任を取るつもりだ」
「責任?」
 眉を寄せて呟くと、ゴンッと塾長が拳で机を叩いた。
「とぼけるな! 小川さんとの関係についてだ!」
 そうまで言われても、最初は何を言われているのかわからなかった。一瞬後、ハッと弾かれたように周りを見渡す。

 同僚たちが全員、碧を見ていた。非難混じりのいくつもの冷たい視線。女性たちが固まって、ひそひそと話している。
 講師室の出入り口に、心配そうな、不安げな顔をした生徒たちの姿があった。生徒たちのすぐ後ろの壁に、センター試験のカウントダウンが書かれた貼り紙が貼られていて、それを見たときおもわず叫んだ。
「ちがう!」

 碧は生徒たちを見たまま言った。
「小川さんはただの友人です。なにもありません」
「むこうはそう思ってないようだがな」
 碧の言うことを全く信じてない様子で塾長は呟いた。体内から汗が滲み出るような嫌な感覚。碧は首を振った。
「誤解です。私は」
 塾長は無言で封筒を差し出した。眉間にシワを入れたまま、中を開封する。緊張で手がもつれて、舌打ちしそうになる。指先が驚くほど冷たい。
 
 二人で食事をしている時の写真や街を歩いている写真が何枚も出てきた。碧はそれらを信じられない思いで見る。
「小川さんは二年前から結婚されている。なにもないというには、仲が良すぎるんじゃないか」
 二年前から結婚。最初から、結婚していた。
 重い石で頭を殴られたようんだった。

「小川さんは、君のことを運命の相手だと言ってるらしい。いったいどんな手を使ったんだか」
 塾長が嘲笑うように言った。呆然としている碧を見据えると、判決を言い渡す裁判官のようにはっきりと言った。

「君は教育者としてふさわしくない」

 今すぐここから出て行きなさい。塾長はそう言って立ち上がると、碧に背を向けた。
 
 ピシャン。
 講師室の扉が閉められる。ほら、みんな次の授業始まるぞ。生徒たちを急かす塾長や同僚たちの声。ざわめきは数分も経たないうちに消えた。碧はずっとそこに立ち尽くしていた。
< 44 / 86 >

この作品をシェア

pagetop