元教え子は現上司
もういちどひとつに
 目の前のコーヒーはいつのまにか冷たくひえていた。
温度と一緒に味もわからなくなってしまったそれを一口飲み、マグカップを置く。コトリという音が静まり返った室内にやけに響いた。

「――――で、」
 暁が口を開く。少しかすれた声。苛立ったように咳ばらいして、あぐらをかいていた足をほどいて片方の膝を立てた。
「今に至るってわけ?」
 眉間に寄ったシワ。その下の目は伏せられている。碧はかすかに頷いた。

「やばいじゃん、完全にストーカーじゃんあいつ」
 今までの口調をかなぐり捨てた、年相応の口調。そこから弾かれるストーカーという言葉が、羽虫のように耳朶の中でジリジリと蠢く。そんなものが身近で起きるなんて、いい加減ツイてない人生だけど、ほんとどうかしてる。他人事のようにどこか淡々と思った。

 暁はコーヒーをひと息であおって、ダンッとテーブルに置いた。カップを見つめて、
「まぁ、どこまでほんとかわかんないけどね」
 素っ気ない口調でそう言うと、さらりと続けた。

「あんた嘘つきだし」

 ぐさり、と言葉が胸に突き刺さる。面接でも言われたこと。

 あんた、相変わらずうそつきだな
 
 涙が出そうになって、ここで泣くのだけは嫌だと唇を強く噛む。

「そうですね」
 震える声が悔しい。涙の膜が、意志と無関係に視界を遮っていく。

「私、嘘つきだから、今のも嘘かもしれません」
 
 ふいにすべてが馬鹿らしくなって立ち上がった。
「もう帰ってください」
 後悔が猛烈にこみあげる。聞かれたままにベラベラとしゃべって、なにを期待したんだろう。
  
「待てよ」
 ふいに腕をつかまれた。予想してなかった動きに体勢が崩れて、
「うわっ」
 二人分の声が室内に響く。暁の胸に向かって倒れこんだ。

「いってぇ」

 ぼやく声が耳元で聞こえて、慌てて起き上がる。暁の立てた両足におさまって、その胸にもたれかかるような体勢になっていた。

 あわてて離れる。俯いた暁の表情を確認する余裕はなかった。
 ドキドキと暴れる心臓を抑えながら、落ち着け落ち着け、と言い聞かせる。ふと、暁の足元になにか落ちているのに気がつく。
「あ」
 おもわず声が出てしまった。
 
 暁が碧の視線の先を追った。無表情に、それを手に取る。
 手を伸ばすけれど遅かった。それがなにかわかると、暁の目がわずかに見開かれた。碧は表情の変化に耐えられず、下を向く。

 端がすり切れて、全体的に黄ばんでいる。ずいぶん古くなって、古い紙独特のにおいがするだろう。

 碧が高校生の頃、流行した少女漫画。ドラマ化されて映画化された純愛モノの。

 八年前、碧が生徒に――暁に貸した少女漫画だ。
< 46 / 86 >

この作品をシェア

pagetop