元教え子は現上司
引っ越すとき、迷った挙句に捨てることができなかった一冊。普段はもう読むことのない古い漫画なのに、転んだ拍子に本棚から落ちてしまったらしい。
暁は黙ったままパラリ、とページをめくっていく。碧はいたたまれない気もちになって、止めることもできずその様子を見ていた。握りこんだ両手が冷たくなっていく。
おぼえてるだろうか、暁は。この漫画のこと。
私が先生だったときのこと。
「これって――」
暁が口を開いたとき、ヒラリと漫画の間からなにかが舞い落ちた。暁は怪訝な顔で拾い上げる。碧はその様子をぼんやりと見て、直後それがなにか思い出した。
「だ、だめ!」
まずい、今度こそ。
暁の手から奪い取ろうと前のめりになって、けれど難なくかわされる。
カサリ。
紙のこすれる音がして、碧は観念したように目を閉じた。もう見なくてもわかる。
大学ノートの切れ端。090から始まる数字と、その下に列挙された英数字、アットマークドコモ。
高校生の暁に手渡された、連絡先が書かれたメモ用紙だった。
胸がドクンと鳴る。あぁほんと、少女漫画みたいだ――。
グシャ。
紙を握りつぶす音がすぐそばで聞こえて、目を開けた。
「なんでこんなの持ってんだよ」
暁が碧を見る。鋭いまなざし。睨むのとはちがう。まっすぐ、射抜くように見るその目が、高校生の彼と重なった。
二十四歳の暁の掌で、十六歳の暁のアドレスが書かれたメモが潰されている。碧はそれを眺めながら、瞼が熱くなってくるのを知る。
「なんでって」
こみあげてくる涙が熱い。どうしてこんな簡単な問題(こと)もわからないんだろう。答えは絶対教えてあげたくない。
「忘れたくなかったからよ」
暁がはっとしたように目を見開いて、碧の目からは涙が落ちていった。
忘れたくなくて、こっそりと忍び込ませたノートの切れ端。忘れたくてこんなところまで来たっていうのに。矛盾してる。ずうっとそう。
忘れたいけど、忘れたくない。
碧は後ろを向いて、マグカップを掴んだ。手は震えていた。
ユナさんと付き合ってるんですよ。
声が頭の中に響く。
もう、やめよう。いい歳して、がんじがらめになってるのは。
「嘘です」
乱暴に目元を拭うと、つとめて明るい声を出した。
「遠野さんが言うとおり、嘘ですよ。忘れてください。今の全部」
背を向けて、距離を取ろうとキッチンへと向かう。
その途端、後ろから腕を引かれた。力が強くて、おもわず短い叫び声を上げる。
暁の両腕が碧の胸の前で交差される。後ろからすっぽりと覆うように抱きかかえられていた。
「と、遠野さ」
「なんだよそれ」
回される腕に力がこもった。さらに引き寄せられて、頬の真横に暁の頬がある。息が顔にかかって、鼓動が熱を持つ。
「暁だろ、ふざけんな。なんだよ、俺に敬語とか、ありえねぇだろ」
今までの鬱憤を吐きだすようにそう言い捨てて、碧を強く抱きしめる。くらりとめまいがした。
なに? なにがおこってるの?
「ちくしょう」
暁の前髪が瞼にあたる。柔らかい感触。昔、この髪を指先で梳いた感触を思い出して頬がさらに熱くなる。
ドクン、ドクン、ドクン。
鼓動が体中から聞こえて、自分のものなのか暁のなのか、わからなかった。
「なんだよ、ちくしょう。俺」
唐突に体が離される。暁の両腕が碧の肩を掴んでいた。向かい合い、暁の目を正面から見る。暗く翳った瞳。怒りと、それだけじゃない、なにか別の感情が見えそうだった。碧はまなざしから自分を守るように俯いて、
「はなしてください」
「俺はずっと忘れられなかった、あんたのこと。あんな野郎が近くにいて」
暁の言葉が途切れる。振りほどこうとしても、力が強くてかなわない。
なんだかずっと前も、これと同じことがあったような――。
「碧」
暁が呟く。
あおい。名前を呼んだ。
ふっと夢から醒めたように、ゆっくりと目の前の男を見上げた。背の高い、きれいな目をした男。両肩に乗る指は細長いのに、大きな手は大人の男のそれだった。
暁、だ。
あたりまえのことを強く認識して、その途端に涙があふれた。
暁が一瞬眉根を寄せて、開いた唇でなにか言った。聞き取れない、と考える間もなく、肩を引き寄せられる。
暁の顔が近づく。予感に導かれて、目を閉じた。
八年ぶりのキスは、唇の端に流れた涙の味がして、それでもひどく甘やかだった。
暁は黙ったままパラリ、とページをめくっていく。碧はいたたまれない気もちになって、止めることもできずその様子を見ていた。握りこんだ両手が冷たくなっていく。
おぼえてるだろうか、暁は。この漫画のこと。
私が先生だったときのこと。
「これって――」
暁が口を開いたとき、ヒラリと漫画の間からなにかが舞い落ちた。暁は怪訝な顔で拾い上げる。碧はその様子をぼんやりと見て、直後それがなにか思い出した。
「だ、だめ!」
まずい、今度こそ。
暁の手から奪い取ろうと前のめりになって、けれど難なくかわされる。
カサリ。
紙のこすれる音がして、碧は観念したように目を閉じた。もう見なくてもわかる。
大学ノートの切れ端。090から始まる数字と、その下に列挙された英数字、アットマークドコモ。
高校生の暁に手渡された、連絡先が書かれたメモ用紙だった。
胸がドクンと鳴る。あぁほんと、少女漫画みたいだ――。
グシャ。
紙を握りつぶす音がすぐそばで聞こえて、目を開けた。
「なんでこんなの持ってんだよ」
暁が碧を見る。鋭いまなざし。睨むのとはちがう。まっすぐ、射抜くように見るその目が、高校生の彼と重なった。
二十四歳の暁の掌で、十六歳の暁のアドレスが書かれたメモが潰されている。碧はそれを眺めながら、瞼が熱くなってくるのを知る。
「なんでって」
こみあげてくる涙が熱い。どうしてこんな簡単な問題(こと)もわからないんだろう。答えは絶対教えてあげたくない。
「忘れたくなかったからよ」
暁がはっとしたように目を見開いて、碧の目からは涙が落ちていった。
忘れたくなくて、こっそりと忍び込ませたノートの切れ端。忘れたくてこんなところまで来たっていうのに。矛盾してる。ずうっとそう。
忘れたいけど、忘れたくない。
碧は後ろを向いて、マグカップを掴んだ。手は震えていた。
ユナさんと付き合ってるんですよ。
声が頭の中に響く。
もう、やめよう。いい歳して、がんじがらめになってるのは。
「嘘です」
乱暴に目元を拭うと、つとめて明るい声を出した。
「遠野さんが言うとおり、嘘ですよ。忘れてください。今の全部」
背を向けて、距離を取ろうとキッチンへと向かう。
その途端、後ろから腕を引かれた。力が強くて、おもわず短い叫び声を上げる。
暁の両腕が碧の胸の前で交差される。後ろからすっぽりと覆うように抱きかかえられていた。
「と、遠野さ」
「なんだよそれ」
回される腕に力がこもった。さらに引き寄せられて、頬の真横に暁の頬がある。息が顔にかかって、鼓動が熱を持つ。
「暁だろ、ふざけんな。なんだよ、俺に敬語とか、ありえねぇだろ」
今までの鬱憤を吐きだすようにそう言い捨てて、碧を強く抱きしめる。くらりとめまいがした。
なに? なにがおこってるの?
「ちくしょう」
暁の前髪が瞼にあたる。柔らかい感触。昔、この髪を指先で梳いた感触を思い出して頬がさらに熱くなる。
ドクン、ドクン、ドクン。
鼓動が体中から聞こえて、自分のものなのか暁のなのか、わからなかった。
「なんだよ、ちくしょう。俺」
唐突に体が離される。暁の両腕が碧の肩を掴んでいた。向かい合い、暁の目を正面から見る。暗く翳った瞳。怒りと、それだけじゃない、なにか別の感情が見えそうだった。碧はまなざしから自分を守るように俯いて、
「はなしてください」
「俺はずっと忘れられなかった、あんたのこと。あんな野郎が近くにいて」
暁の言葉が途切れる。振りほどこうとしても、力が強くてかなわない。
なんだかずっと前も、これと同じことがあったような――。
「碧」
暁が呟く。
あおい。名前を呼んだ。
ふっと夢から醒めたように、ゆっくりと目の前の男を見上げた。背の高い、きれいな目をした男。両肩に乗る指は細長いのに、大きな手は大人の男のそれだった。
暁、だ。
あたりまえのことを強く認識して、その途端に涙があふれた。
暁が一瞬眉根を寄せて、開いた唇でなにか言った。聞き取れない、と考える間もなく、肩を引き寄せられる。
暁の顔が近づく。予感に導かれて、目を閉じた。
八年ぶりのキスは、唇の端に流れた涙の味がして、それでもひどく甘やかだった。