元教え子は現上司
髪を撫でる感触で目を覚ました。半分だけ開いた目で視線をやると、肘を着いた暁が碧を見ていた。
自分をのぞきこんでいる男の目は柔らかく、その表情はひどく満足げに見えた。途端に昨日のあれこれを思い出して、頬が赤く染まる。逃げるようにシーツを口元まで引き上げた。
「おはよ」
笑いながら暁は言う。朝だからか、いつもよりかすれた声だった。いま何時、と尋ねた自分の声はそれよりもっとかすれていた。慌てて咳払いする。
「まだ寝てていいよ。俺さ、一回家戻るわ。さっき電話きて、一件打ち合わせ入った」
いってきます。
そう言うと暁は身を寄せて、シーツから出ている眉のあたりにキスをした。
「わっ。ひぃちゃんどうしたの」
フカミンが驚いた声を出す。
「顔真っ赤だよ」
「……なんでもないです」
余計なことを思い出すな、と心の中で念じる。意志に反して緩みそうになる口角を止めようと、頬の内側を噛む。
ユナはそんな碧をじっと見て、やがて納得したように言った。
「あー、とうとうデキちゃったんだ? リーダーとひぃちゃん」
「!」
驚きのあまり声が出ないでいる碧より早く、フカミンがエーッと目を丸くした。
「え、なにそれ、ほんと」
「ほんとほんとぉ。うちの会社イチ競争率の高い男を、このアラサーが獲ってったんだよ、すごいよねー」
ユナがケロッと答える。近くに座る人たちが、好奇に満ちた顔で振り返るのがわかった。カーッと頬に熱が集まる。
「ちょっと、ユナさん声」
大きい、と言う前に、うわ否定しないよ、とフカミンがまた驚く。ほらねー、とユナがケタケタ笑う。もうやだ、この子たち生徒と変わらない。おもわず廊下に立ってなさい、と怒鳴りたくなる。
声をあげようとして、ピタリと止まった。フカミンとユナの後ろを、通っていった小柄な女の子。さくらんぼちゃんだった。チラッとこっちを見た目は、泣きそうに潤んでいる。
おもわず口を開いたけれど、なにか言うより先にさくらんぼちゃんは唇を結ぶと、俯いて駆け出した。
ごめんなさい。私本当に、嘘つきになっちゃった。
心の中で彼女に謝る。胸をつく鈍い痛みは気づかない振りをした。彼女ほどの痛みは無いはずだから。
ごめんなさい。もう一度心の中でつぶやく。それはさくらんぼちゃんに向けたものでもあったし、暁とこれから出会うはずだった誰かに向けたものだったかもしれない。
それでも、私はもう彼の手を手離せない。
ふふ、と笑うユナの声に視線をもどす。ユナはニコニコ笑って、さくらんぼちゃんの駆けて行った方を見ていた。
「よかったね? これでライバルひとり減ったよ」
「…………」
わざとあんな大きな声で言ったのか。おそろしい。
「そんな顔しないでよぉ。ただでさえ、ひぃちゃんはアラサーっていうハンディがあるんだからね? せっかくの優良物件なんだから、理解ある大人ぶってる場合じゃないんだよ?」
ユナはキュルン、と音がしそうなくらい可愛らしく小首を傾げた。自分の見せ方をよくわかっていて、狩の戦略に長けてる。やっぱり生徒とは全然ちがう、とぐうの音も出ない。
その時、目の前の内線が鳴った。かがみこんで受話器をとる。
「はい、久松です」
一階エントランスの受付嬢からだった。
「あの、久松さんあてにアポイント無しのお客様なんですが」
少しとまどったように言われた名前に、スッと表情が消える。フカミンが気づいて、訝しげな表情になる。
「わかりました。今、伺います」
受話器を下ろした碧に、ひぃちゃんどうしたの? とフカミンが尋ねる。碧は曖昧に笑って立ち上がった。無意識に、隣の隣、主のいないデスクに目をやる。まだ当分来ないだろう。
唇を引き締める。
そのほうがいい。これ以上、巻き込みたくない。
ギュッと拳を作って、フロアを出ていった。
自分をのぞきこんでいる男の目は柔らかく、その表情はひどく満足げに見えた。途端に昨日のあれこれを思い出して、頬が赤く染まる。逃げるようにシーツを口元まで引き上げた。
「おはよ」
笑いながら暁は言う。朝だからか、いつもよりかすれた声だった。いま何時、と尋ねた自分の声はそれよりもっとかすれていた。慌てて咳払いする。
「まだ寝てていいよ。俺さ、一回家戻るわ。さっき電話きて、一件打ち合わせ入った」
いってきます。
そう言うと暁は身を寄せて、シーツから出ている眉のあたりにキスをした。
「わっ。ひぃちゃんどうしたの」
フカミンが驚いた声を出す。
「顔真っ赤だよ」
「……なんでもないです」
余計なことを思い出すな、と心の中で念じる。意志に反して緩みそうになる口角を止めようと、頬の内側を噛む。
ユナはそんな碧をじっと見て、やがて納得したように言った。
「あー、とうとうデキちゃったんだ? リーダーとひぃちゃん」
「!」
驚きのあまり声が出ないでいる碧より早く、フカミンがエーッと目を丸くした。
「え、なにそれ、ほんと」
「ほんとほんとぉ。うちの会社イチ競争率の高い男を、このアラサーが獲ってったんだよ、すごいよねー」
ユナがケロッと答える。近くに座る人たちが、好奇に満ちた顔で振り返るのがわかった。カーッと頬に熱が集まる。
「ちょっと、ユナさん声」
大きい、と言う前に、うわ否定しないよ、とフカミンがまた驚く。ほらねー、とユナがケタケタ笑う。もうやだ、この子たち生徒と変わらない。おもわず廊下に立ってなさい、と怒鳴りたくなる。
声をあげようとして、ピタリと止まった。フカミンとユナの後ろを、通っていった小柄な女の子。さくらんぼちゃんだった。チラッとこっちを見た目は、泣きそうに潤んでいる。
おもわず口を開いたけれど、なにか言うより先にさくらんぼちゃんは唇を結ぶと、俯いて駆け出した。
ごめんなさい。私本当に、嘘つきになっちゃった。
心の中で彼女に謝る。胸をつく鈍い痛みは気づかない振りをした。彼女ほどの痛みは無いはずだから。
ごめんなさい。もう一度心の中でつぶやく。それはさくらんぼちゃんに向けたものでもあったし、暁とこれから出会うはずだった誰かに向けたものだったかもしれない。
それでも、私はもう彼の手を手離せない。
ふふ、と笑うユナの声に視線をもどす。ユナはニコニコ笑って、さくらんぼちゃんの駆けて行った方を見ていた。
「よかったね? これでライバルひとり減ったよ」
「…………」
わざとあんな大きな声で言ったのか。おそろしい。
「そんな顔しないでよぉ。ただでさえ、ひぃちゃんはアラサーっていうハンディがあるんだからね? せっかくの優良物件なんだから、理解ある大人ぶってる場合じゃないんだよ?」
ユナはキュルン、と音がしそうなくらい可愛らしく小首を傾げた。自分の見せ方をよくわかっていて、狩の戦略に長けてる。やっぱり生徒とは全然ちがう、とぐうの音も出ない。
その時、目の前の内線が鳴った。かがみこんで受話器をとる。
「はい、久松です」
一階エントランスの受付嬢からだった。
「あの、久松さんあてにアポイント無しのお客様なんですが」
少しとまどったように言われた名前に、スッと表情が消える。フカミンが気づいて、訝しげな表情になる。
「わかりました。今、伺います」
受話器を下ろした碧に、ひぃちゃんどうしたの? とフカミンが尋ねる。碧は曖昧に笑って立ち上がった。無意識に、隣の隣、主のいないデスクに目をやる。まだ当分来ないだろう。
唇を引き締める。
そのほうがいい。これ以上、巻き込みたくない。
ギュッと拳を作って、フロアを出ていった。