元教え子は現上司
「お待たせしました」

 固い声で言いながら会議室の扉を開く。六人掛けのデスクにその人は座らずに、窓の外を眺めて立っていた。碧の声に振り返る。

「わかりづらい場所にあるね。迷いそうになったよ」
 正面を向いた小川の右頬は青黒く腫れていた。昨日暁に殴られた場所だ。その時のことを思い出し、降ろしている両手の拳を固く握りしめた。
「なんのご用でしょうか。打ち合わせは事前にお約束をいただかないと」
「碧」
 事務的な口調で話す碧を遮って、小川が近づく。碧は反射的に一歩退いた。

「そんなに恐がらないでよ」
 小川は穏やかに笑って言った。細い目。笑うと頬に貼りつく青あざが一層めだって見える。
 小川は汚れを拭うようにあざに手をあてると、笑顔のまま言った。
「でも、うん、そうだね。僕も少し怒ってるんだよ。あの男がね、僕にしたこと」
 だからね、と言って小川は碧の目の前まで来た。後ずさりすると、ドンと背中が後ろの扉にあたる。

 小川は碧を挟むように扉に両手を着くと、碧の顔を覗きこんだ。
「だからね、取引やめちゃおうとおもって。この会社と」
 
 目を見張る碧に、小川はにやりと笑う。
「あの若い子、碧の上司なんだよね? 契約が白紙になったら大変だろうね。責任取らされるんじゃない」
 楽しそうに小川は言う。その言葉に、くらりと目が霞む。

 暁。
 迷惑をかけたくない。いつだって、それが一番の願いなのに。

 碧の考えを読んだように、小川は片方の手を伸ばすと碧の顎を上向けた。囁くように言う。
「ねぇ碧。続けてもいいんだよ取引くらい」
 めがねの向こうの目が愉しげに歪む。触られた場所から蝕まれるような気がして、顎を振るけれど力が強くてかなわない。
「……どうすれば、いいんですか」
 碧、とかすれた声で呼ぶ今朝の暁を思い出した。涙が滲む。

 小川はクッと息だけで嗤った。
「そうだね、まずはここを辞めなさい。また僕のところに戻っておいで。それから――」
 バンッ。
 唐突に扉が開いた。小川の手が離れ、代わりに強い力で後ろから肩を抱かれた。

「そんなことさせない」

 碧の肩を抱いたまま、暁がはっきりとそう言った。
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