元教え子は現上司
「取引なんて白紙になったっていい。彼女は渡さない」
語気を荒くして叫ぶ暁を、小川は笑みを消してじっと見ていた。
暁。
碧は自分の肩をしっかり抱きしめる暁を見上げた。どうしてこの人は、いつもヒーローのように現れてくれるんだろうと思いながら。
無意識に、暁の胸元をギュッと掴んだ。暁の視線が小川から碧にうつって、ふっと和らぐ。安心させるように。
守ってくれている。
ひとりじゃない、もう大丈夫だ。そう思うと緊張の糸がぷつりと切れて、長く震える息を吐いた。
「碧、君は元高校教師だって言ってたよね」
ふいに落ち着いた声で小川が言う。びくりとして顔を上げると、小川は感情の読めない笑みを浮かべて暁を見ていた。
「遠野さん。あなたの出身校を調べさせてもらいました。するとふしぎなことがわかってね」
まさか。
心臓が嫌なリズムを刻む。
暁が訝しげに眉間にシワを寄せた。
小川はめがねのフレームに手をあてた。蛍光灯の灯りが、小川のめがねに反射して白く光る。
「碧の働いていた学校と、遠野さんの出身校が同じだったんですよ。遠野さんの年齢を考えるとね、どうも二人は同じ学校の教師と生徒だったんじゃないかなと思いましてね」
小川がふたたび笑う。笑うたびに頬の青あざが引きつれて形を変える。
「遠野さん。碧をそこまで庇うのは、元先生に恩を感じてるとか? それとも」
にこにこ笑う小川のめがねのフレームに、血の気のない顔をした碧が映りこんでいる。
「なにか別の理由があるんでしょうかね。人には知られたくないような」
ドッドッドッド。
心臓が体の中で暴れる。暁を見る余裕はなかった。
ばれる。ばれてしまう。二人の関係が――。
「だったらなんだっていうんだよ」
暁がポツリと言った。小川の目が、ほんの少し見開かれた。
「あんた、情けないな。惚れた女を追いつめることしかできない。あんた奥さんもいるんだよな」
暁のきれいな形の目が、小川を射抜くように見る。
「周りの女に迷惑かけてばっかりだな。そんな生き方でいいのかよ。もっと賢くいろよ、大人だろう」
小川の表情から再び笑みが消えた。そのままゆっくりとした動作で手近な椅子に座る。ギィ。椅子の軋む音がやけに耳につく。
「決めた」
ぼうと空間を見ていた小川はゆるゆると視線を暁に向けて、無表情のまま言った。
「きみ、今日でクビ。会社を辞めろ」
「…………は」
暁がかすれた声を出す。それには構わず、うんうん、それがいい、と小川は頷きながら呟く。
「……なに言ってるんですか」
おもわず声が出た。事態に着いていけなかった。
小川は椅子の背もたれに体を預け、ゆったりと足を組んだ。
「この子、気に食わないね。いなくなってほしくなったよ。この子が辞めれば、僕も碧の前から姿を消そう。君たちの『過去』にも触れない」
過去、という言葉を強調して愉しげに笑う。
「どうだい、悪くない条件だろう」
碧はいつの間にか汗をかいていた拳をぐっと握りしめた。
自分の所為で暁が会社を辞める? そんなこと、させられるわけがない。
「冗談じゃな」
「わかりました」
きっぱりとした声で暁が言った。驚いて振り返る。
暁はいつもと変わらない表情で、小川を見ていた。
「その代わりもう二度と、彼女に近づかないでください」
小川は軽い口調であぁ、と応じた。
「暁」
そんなこと信じちゃだめ。言葉がうまく声にならず、縋るように暁を見上げる。暁は目が合うと、碧の目をみたまま頷いた。
「それじゃ、今日はこの辺で帰ろう」
小川はそう言うと椅子から立ち上がった。
「約束守ってくださいね、小川さん」
暁の言葉に小川は黙ってニヤリと笑うと、会議室を出て行った。
碧はその場にへた、と座りこんだ。
なんでこうなっちゃったんだろう。
涙が視界を覆う。
「碧」
後ろからぎゅっと抱きしめられて、弾みで瞳に溜まっていた涙が落ちていく。振り返ると暁が碧を見ていた。
「暁、なんで」
ポタポタと、涙が暁のスーツの袖に落ちていく。碧はやるせない思いでその跡を見ていた。
暁は笑って言った。
「俺が辞めるくらいであいつが碧の前からいなくなるんだろ? そんなの、選ぶに決まってる」
そんな、果たされるかもわからない約束のために。
なんと言ったらいいかわからず、碧は顔を両手で覆ってうずくまった。両目からこぼれ落ちる涙が熱い。胸の内側が震えて、言葉をかき消していく。
「碧」
暁がもう一度名前を呼んで、優しく両手を握りしめた。今朝と同じ、穏やかな顔をしていた。
あんなに幸せな朝だったのに。
「そんな顔しないでよ」
暁は碧の涙をそっと拭った。
「俺、後悔してるんだ。昨日まで意地張って碧に触れなかったこと。せっかくまた会えたんだ。だから」
言葉を切って、碧を強く抱きしめる。抱き寄せられたスーツの下のシャツから暁の匂いがして、嬉しくて切なくて、また涙が溢れる。
今日で、私教師をやめます。ここからいなくなります。だから、お願いですから、彼とのこと、誰にも言わないでください。
八年前と同じだ。
どうして私たちは、そこからいなくなることでしかお互いを守れないんだろう。
語気を荒くして叫ぶ暁を、小川は笑みを消してじっと見ていた。
暁。
碧は自分の肩をしっかり抱きしめる暁を見上げた。どうしてこの人は、いつもヒーローのように現れてくれるんだろうと思いながら。
無意識に、暁の胸元をギュッと掴んだ。暁の視線が小川から碧にうつって、ふっと和らぐ。安心させるように。
守ってくれている。
ひとりじゃない、もう大丈夫だ。そう思うと緊張の糸がぷつりと切れて、長く震える息を吐いた。
「碧、君は元高校教師だって言ってたよね」
ふいに落ち着いた声で小川が言う。びくりとして顔を上げると、小川は感情の読めない笑みを浮かべて暁を見ていた。
「遠野さん。あなたの出身校を調べさせてもらいました。するとふしぎなことがわかってね」
まさか。
心臓が嫌なリズムを刻む。
暁が訝しげに眉間にシワを寄せた。
小川はめがねのフレームに手をあてた。蛍光灯の灯りが、小川のめがねに反射して白く光る。
「碧の働いていた学校と、遠野さんの出身校が同じだったんですよ。遠野さんの年齢を考えるとね、どうも二人は同じ学校の教師と生徒だったんじゃないかなと思いましてね」
小川がふたたび笑う。笑うたびに頬の青あざが引きつれて形を変える。
「遠野さん。碧をそこまで庇うのは、元先生に恩を感じてるとか? それとも」
にこにこ笑う小川のめがねのフレームに、血の気のない顔をした碧が映りこんでいる。
「なにか別の理由があるんでしょうかね。人には知られたくないような」
ドッドッドッド。
心臓が体の中で暴れる。暁を見る余裕はなかった。
ばれる。ばれてしまう。二人の関係が――。
「だったらなんだっていうんだよ」
暁がポツリと言った。小川の目が、ほんの少し見開かれた。
「あんた、情けないな。惚れた女を追いつめることしかできない。あんた奥さんもいるんだよな」
暁のきれいな形の目が、小川を射抜くように見る。
「周りの女に迷惑かけてばっかりだな。そんな生き方でいいのかよ。もっと賢くいろよ、大人だろう」
小川の表情から再び笑みが消えた。そのままゆっくりとした動作で手近な椅子に座る。ギィ。椅子の軋む音がやけに耳につく。
「決めた」
ぼうと空間を見ていた小川はゆるゆると視線を暁に向けて、無表情のまま言った。
「きみ、今日でクビ。会社を辞めろ」
「…………は」
暁がかすれた声を出す。それには構わず、うんうん、それがいい、と小川は頷きながら呟く。
「……なに言ってるんですか」
おもわず声が出た。事態に着いていけなかった。
小川は椅子の背もたれに体を預け、ゆったりと足を組んだ。
「この子、気に食わないね。いなくなってほしくなったよ。この子が辞めれば、僕も碧の前から姿を消そう。君たちの『過去』にも触れない」
過去、という言葉を強調して愉しげに笑う。
「どうだい、悪くない条件だろう」
碧はいつの間にか汗をかいていた拳をぐっと握りしめた。
自分の所為で暁が会社を辞める? そんなこと、させられるわけがない。
「冗談じゃな」
「わかりました」
きっぱりとした声で暁が言った。驚いて振り返る。
暁はいつもと変わらない表情で、小川を見ていた。
「その代わりもう二度と、彼女に近づかないでください」
小川は軽い口調であぁ、と応じた。
「暁」
そんなこと信じちゃだめ。言葉がうまく声にならず、縋るように暁を見上げる。暁は目が合うと、碧の目をみたまま頷いた。
「それじゃ、今日はこの辺で帰ろう」
小川はそう言うと椅子から立ち上がった。
「約束守ってくださいね、小川さん」
暁の言葉に小川は黙ってニヤリと笑うと、会議室を出て行った。
碧はその場にへた、と座りこんだ。
なんでこうなっちゃったんだろう。
涙が視界を覆う。
「碧」
後ろからぎゅっと抱きしめられて、弾みで瞳に溜まっていた涙が落ちていく。振り返ると暁が碧を見ていた。
「暁、なんで」
ポタポタと、涙が暁のスーツの袖に落ちていく。碧はやるせない思いでその跡を見ていた。
暁は笑って言った。
「俺が辞めるくらいであいつが碧の前からいなくなるんだろ? そんなの、選ぶに決まってる」
そんな、果たされるかもわからない約束のために。
なんと言ったらいいかわからず、碧は顔を両手で覆ってうずくまった。両目からこぼれ落ちる涙が熱い。胸の内側が震えて、言葉をかき消していく。
「碧」
暁がもう一度名前を呼んで、優しく両手を握りしめた。今朝と同じ、穏やかな顔をしていた。
あんなに幸せな朝だったのに。
「そんな顔しないでよ」
暁は碧の涙をそっと拭った。
「俺、後悔してるんだ。昨日まで意地張って碧に触れなかったこと。せっかくまた会えたんだ。だから」
言葉を切って、碧を強く抱きしめる。抱き寄せられたスーツの下のシャツから暁の匂いがして、嬉しくて切なくて、また涙が溢れる。
今日で、私教師をやめます。ここからいなくなります。だから、お願いですから、彼とのこと、誰にも言わないでください。
八年前と同じだ。
どうして私たちは、そこからいなくなることでしかお互いを守れないんだろう。