元教え子は現上司
「フカミン」

 だれもいない屋上の柵に、肘をかけて立つ後ろ姿に声をかける。返答がないことにためらいつつ、ゆっくりと隣に行く。

 眼前には高速道路。ビル、ビル、大きな看板、ビル、痩せた街路樹。故郷とは大きくちがう景色が、オレンジ色に翳った夕焼けの中に落とされている。昼間の熱気を孕んだぬるい風が上から振ってきて、スカートの中を通っていった。

「暑くないですか? ここ」

 フカミンはいつものように笑いもせず、ぼんやりと正面を見ていた。そんな顔をすると、あぁこの人やっぱり同年代だと納得する。ちゃんと、大人。少し疲れた横顔から、普段隠しもってるプライドが透けて見える気がした。

「ひぃちゃん知ってるんでしょ。遠野君が辞める理由」
 こちらを見ることなくフカミンは尋ねた。碧は黙ってうつむくと、目の前の柵を握りしめた。柵は日差しを吸収して、少し熱かった。

 遠野君てさぁ。フカミンがいつもののんびりとした口調で言う。
「入社してすぐ昇進試験受けて、最初はもちろん落ちて。でも、半期ごとの昇進試験、懲りずにまた受けてたよ。なにをそんなに急いでるんだよって笑ったこともあったけど」
 なにを思い出したのか、ほんの一瞬口元に笑みを宿す。それもすぐに消えて、どこか遠くを見るような表情で続けた。

「あいつの必死な姿見てたらさ、年下だけど尊敬してたんだよね。もったいないよ」

 もったいないよ。
 小さく言われた言葉が胸を刺した。

 もう一度目の前の景色を見る。夕焼け空が街を照らす。小さな場所に敷き詰められたようなビルや家々。もうすぐ暗くなったら、高速を走る車やトラックのテールランプが夜に映える。

 ここで、暁はがんばっていた。ここは彼の居場所だ。

 奪うわけにはいかない。

 その理由が自分だったら、なおさらだ。

「そうですね」
 薄紫に変わり始めた空を見上げながら、碧は呟いていた。
「私もそう思います」
 さっき嗅いだ暁のスーツの匂いを思い出そうとするけど、夏の夕暮れの匂いに包まれて、もうわからなかった。

 上司で恋人。
 だけどやっぱり彼は、私の教え子なんだ。

 守りたい。

 そう言ったら、暁はまた怒ってしまうだろうか。
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