元教え子は現上司
整理しきれない気もちを表すように、ダンボールの中は混沌としていた。キッチン用品と洋服と靴と薬類が同じ箱の中に入ってる。後で取り出したときの分かりやすさは一切考慮してない。
余計なことを考えると叫び出しそうだったから、目に映った物からどんどんダンボールに入れている。ぼん、と放るように入れたグラスが割れた音がした。それさえもどうでもよかった。
目についたものからダンボールに詰めていって、ほぼ空になった棚の奥に、それはあった。
色あせた少女漫画。
この間、暁に見つけられたもの。
「――――」
恥ずかしいから、もう当分見たくないから、そのつもりで奥に仕舞いこんでいた。こんな早く見つけることになるなんて。
角が折れ曲がっていて、ページが開きにくくなっている。床に座り込んで、パラ、とめくってみた。
これ俺にも貸して。
あのころ、夢中だったもの。エアロ・スミス、ジャクソンファイブ、ウィンドアンドファイア、それにザ・ビートルズ。Let it Beが頭の中で回る。
飽きっぽいンだよ俺
こんなさ、マジになったの初めてだよ。碧がはじめて
そう言って笑う。笑顔は、びっくりするくらい変わってなかった。
ぽた、と漫画に涙が落ちる。
暁。
どんな八年間だった?
私はね、ずっとあなたのことを想っていたよ。
そんな八年間だったよ。
携帯が振動して、表示された名前を見て胃が捻じれたように痛む。息を吐いて呼吸を落ち着ける。この間に呼び出しが終わればいいと思いながら。
「はい」
執拗に振動し続ける携帯を、諦めて耳にあてる。
「きちんと辞められたかい?」
機嫌の良さそうな声。耳朶がビリビリと痺れる感覚がする。
「そうですね」
納得してくれたか分からないですけど。心の中で答える。
結局前のときと同じだ。まだなにか言いたそうな長谷を残して会社を後にした。いつだって、しこりを残して出て行くばっかりだ。
小川は碧の言葉にはかまわず、そう、とやっぱり機嫌が良さそうに言う。
「それじゃ、必要な書類を用意しておくよ。次は僕と一緒の本社勤務になるからね」
はい、と感情の無い声で応じる。
昨日の電話で言われていたことだ。会社を辞めて、紅林に戻ってくること。とりあえず、そこまでしか言われてない。それから後のことは考えたくもなかった。
「小川さん」
なんだい、と尋ねる小川に向かって、これだけははっきりさせたいと思いながら、
「もう二度と、さ、遠野さんには関わらないでください」
ピタ、と電話口の声が止まる。じわり、と嫌な汗が背中に滲んだ。
「ああ」
小川が先ほどと変わらない口調で言った。
「碧がよそ見をしなければね。碧がいい子にしてればね、僕だってそんなことしないんだよ」
ぎゅっと噛んだ唇から血が滲んで、その痛みがかろうじて正気を保たせていた。
「今晩そっちに行くから」
そう言って電話は切れた。ツー、ツーという電子音を、こんなに安心して聞いたのははじめてだった。
汗が貼りついた携帯の画面を指で拭いながら、膝の上に載せたままだった漫画を見る。
今晩、小川がここに来る。
きっともう、元の自分ではいられない。
のろのろと顔を上げる。口の開いたいくつものダンボールが、気に入っていたマグカップや靴を飲み込もうとする怪物のように見える。ぐにゃりと視界が歪むような感覚。倒れそうになって、慌てて手を突く。激しい動悸が体を苛む。
逃げなきゃ。
ほかのことはなにも考えなかった。衝動的に、アパートを飛び出す。途端、近くの生垣に止まってる蝉の声が耳を劈く。強い日差しに耐えきれず手で目元を覆おうとして、漫画を持ったままだったことに気がついた。白い夏の陽を浴びて、黄ばんだページが一層貧弱に見える。
――あの学校は、まだあるんだろうか。
ふいに、今まで一度も思ったことのないことを考えた。
どく、と鼓動が震える。先生、と呼ぶ声が近くで聞こえた気がした。
行ってみたい。
最後にもう一度、あの場所を見たい。
ガラスのケースの向こう側にあって、もう二度と触れない宝物のようなあの場所。
八年前、碧が先生だったあの高校に。
余計なことを考えると叫び出しそうだったから、目に映った物からどんどんダンボールに入れている。ぼん、と放るように入れたグラスが割れた音がした。それさえもどうでもよかった。
目についたものからダンボールに詰めていって、ほぼ空になった棚の奥に、それはあった。
色あせた少女漫画。
この間、暁に見つけられたもの。
「――――」
恥ずかしいから、もう当分見たくないから、そのつもりで奥に仕舞いこんでいた。こんな早く見つけることになるなんて。
角が折れ曲がっていて、ページが開きにくくなっている。床に座り込んで、パラ、とめくってみた。
これ俺にも貸して。
あのころ、夢中だったもの。エアロ・スミス、ジャクソンファイブ、ウィンドアンドファイア、それにザ・ビートルズ。Let it Beが頭の中で回る。
飽きっぽいンだよ俺
こんなさ、マジになったの初めてだよ。碧がはじめて
そう言って笑う。笑顔は、びっくりするくらい変わってなかった。
ぽた、と漫画に涙が落ちる。
暁。
どんな八年間だった?
私はね、ずっとあなたのことを想っていたよ。
そんな八年間だったよ。
携帯が振動して、表示された名前を見て胃が捻じれたように痛む。息を吐いて呼吸を落ち着ける。この間に呼び出しが終わればいいと思いながら。
「はい」
執拗に振動し続ける携帯を、諦めて耳にあてる。
「きちんと辞められたかい?」
機嫌の良さそうな声。耳朶がビリビリと痺れる感覚がする。
「そうですね」
納得してくれたか分からないですけど。心の中で答える。
結局前のときと同じだ。まだなにか言いたそうな長谷を残して会社を後にした。いつだって、しこりを残して出て行くばっかりだ。
小川は碧の言葉にはかまわず、そう、とやっぱり機嫌が良さそうに言う。
「それじゃ、必要な書類を用意しておくよ。次は僕と一緒の本社勤務になるからね」
はい、と感情の無い声で応じる。
昨日の電話で言われていたことだ。会社を辞めて、紅林に戻ってくること。とりあえず、そこまでしか言われてない。それから後のことは考えたくもなかった。
「小川さん」
なんだい、と尋ねる小川に向かって、これだけははっきりさせたいと思いながら、
「もう二度と、さ、遠野さんには関わらないでください」
ピタ、と電話口の声が止まる。じわり、と嫌な汗が背中に滲んだ。
「ああ」
小川が先ほどと変わらない口調で言った。
「碧がよそ見をしなければね。碧がいい子にしてればね、僕だってそんなことしないんだよ」
ぎゅっと噛んだ唇から血が滲んで、その痛みがかろうじて正気を保たせていた。
「今晩そっちに行くから」
そう言って電話は切れた。ツー、ツーという電子音を、こんなに安心して聞いたのははじめてだった。
汗が貼りついた携帯の画面を指で拭いながら、膝の上に載せたままだった漫画を見る。
今晩、小川がここに来る。
きっともう、元の自分ではいられない。
のろのろと顔を上げる。口の開いたいくつものダンボールが、気に入っていたマグカップや靴を飲み込もうとする怪物のように見える。ぐにゃりと視界が歪むような感覚。倒れそうになって、慌てて手を突く。激しい動悸が体を苛む。
逃げなきゃ。
ほかのことはなにも考えなかった。衝動的に、アパートを飛び出す。途端、近くの生垣に止まってる蝉の声が耳を劈く。強い日差しに耐えきれず手で目元を覆おうとして、漫画を持ったままだったことに気がついた。白い夏の陽を浴びて、黄ばんだページが一層貧弱に見える。
――あの学校は、まだあるんだろうか。
ふいに、今まで一度も思ったことのないことを考えた。
どく、と鼓動が震える。先生、と呼ぶ声が近くで聞こえた気がした。
行ってみたい。
最後にもう一度、あの場所を見たい。
ガラスのケースの向こう側にあって、もう二度と触れない宝物のようなあの場所。
八年前、碧が先生だったあの高校に。