元教え子は現上司
「――――え?」

 頭に白いものが交じる、四十代くらいの男性。指導教員の袴木(はかまぎ)が立っていた。

「なにしてるんです」

 驚きのあまり声が出ない碧たちを交互に見て、袴木が言った。
 バタンッ。
 すごい速さで扉が閉められた。袴木が戸を閉めたんだ、と遅れて気づく。ようやく暁の首から両手を離す。

「久松、先生」
 絞り出すような袴木の声。異形の生き物を見るような目で、碧を見ている。

「教え子相手に、なにをしてるんですかっ」

 ビクッと体が揺れた。うたた寝していた白昼夢から揺り起こされたときのように。
 汗が背中を流れる。見られた。知られたんだ、という事実がじわじわと身体を侵食する。
 ニュースで報じられる「未成年への猥褻罪」。懲戒免職。
 言葉と一緒にいろんな映像が頭をめぐって、吐き気がこみあげてきた。

「お願いしますっ」

 大きな声で暁が言った。両膝を突いて、頭を床にこすりつける。
「誰にも言わないでくださいっ。真剣なんです、僕。真剣に先生のこと愛してるんです」

 さとる――。

 真っ黒な雲に覆われていたような心が、瞬間白くまたたいた。袴木はギョッとして、
「と、遠野君。外に聞こえるから」
「お願いします! 俺はどうなってもいいから、先生は」
 暁の肩が揺れる。つづいて嗚咽が聞こえた。

 暁、泣いてる。

 そのことにぼんやりと気がつく。
 なんで泣いてるの?
 私のため?

 自然と涙がこみ上げてきた。
 自分のことばかり心配してたことが恥ずかしくなった。暁は全力で私を守ろうとしてくれてるのに。
 
 ごめんね、暁。
 
 涙を拭って、顔を上げる。表情を引き締めた。拳を握りこむ。
 その時、もう心は決まっていた。

「遠野君、勘違いしないでくれる」
「……え?」

 暁が顔を上げて、こちらを振り返る。いつものきれいな目が涙で真っ赤になっている。胸がキリッと痛んだ。
「どうしてもっていうから、からかっただけじゃない」
 両腕を組む。力をこめて。そうしないと倒れてしまいそうだった。
「……碧?」
「やめてよ、なれなれしいんじゃないの?」
 眉間にシワを寄せて、ため息を吐いた。低く吐き捨てる。
「ほんと、ガキってこれだから困る」

「碧、なに言ってんだよ」
 ぼうっと碧を見ていた暁の顔が、徐々に困惑していく。碧は目をそらして、袴木を見た。
「遠野君と私はなんにもありません。先生、ご存知ですよね、私に婚約者がいること」
 声が震えないように、体の芯に力をいれる。
 袴木が胡乱な目つきで碧を見た。

「碧、なんだよそれ!」
 信じられないという顔で暁が立ち上がった。勢いよく立ち上がった所為で、上履きが滑って転びかける。
 碧は両腕を組んだまま暁を見下ろした。
「……あおい」
「先生でしょ? ほんと、何を考えてたのか知らないけど」
 まっすぐに暁を見る。赤い目が、呆然とこっちを見ている。いつもの強さが無い。迷子になった子どものような。
 ちがう。余計なことは考えるな。

「君はただの生徒よ」
 一言一言、区切るようにはっきりと言う。

「だって私たち、なんの関係もないじゃない」

 はっきりと、暁が傷ついた顔をした。心の痛みが透けて見えるようだった。組んだ両腕に一層力をこめる。跡が着くくらい強く。それなのに痛いともおもわない。口の中がひどく渇いた。

「ね、君、もう帰ったら? 下校時刻は過ぎてるわよ」
 暁の顔がカッと紅潮する。口の中でなにか吐き捨てるように呟いて、大きな音をたてて扉を開く。
 バンッ。
 一瞬後、迷い無く扉が閉められた。

 ダダダダ、と遠ざかっていく足音を聞いて、そのままガクンと座り込んだ。

 ハァーッ。ハァーッ。

 息がうまく吸えない。血管の中で魚が跳ねまわっているみたいに、手の甲や肋骨のあたりがビクビクと痺れる。
「久松先生」
 ためらいがちに、袴木が碧を呼ぶ。碧は両手で口を抑えて、呼吸が止まるのを待った。
 涙が両手を濡らしていく。だめだ、ぜんぜん落ち着かない。

「お願いします」

 涙と息切れの合間に、袴木を見上げた。
「今日で、教師をやめます。ここからいなくなります。だから、お願いですから、彼とのこと、誰にも言わないでください」

 碧を守ろうとした華奢な後ろ姿を忘れない。
 あの背中を守るためなら、なんでもできると思った。

 指導教員が目を見開く。
「久松せ」
「お願いしますっ」
 今度は碧が両手を床につけた。許してくれるまで、うんと言ってくれるまで、一生やれる気がした。

 どのくらいそうしていただろう。やがて、はぁーっと大きく息を吐く声がした。
「辞めるんですか」
 静かな声だった。

 ちがう学校に就職した教員仲間から、指導教員の愚痴をよく聞く。新人教師にとって、担当の指導教員がどんな人なのかでその後の学校生活がかなり左右される。
 袴木は良い先輩だった。何度も叱られて、何度も助けられた。

 生徒とね、あんまり仲良くなりすぎてはいけませんよ。あと体罰もダメね、ぜったい。

「このご時世ね、先生も生徒と同じように、アレだめコレだめって規制が多いんだけどね」
 着任した初日、袴木は、机の前で緊張して佇む碧を見上げて笑って言った。

「いい教師になりなさい」

 おさまりかけていた涙がまた頬を流れ落ちる。

 ごめんなさい。いい教師になれなくて、ごめんなさい。

「はい、やめます」
 笑え、と自分に強く念じた。頬は引きつって、それは笑みとは言えないようなものだったけど。
「私の持っているものであの子が守れるなら、悔いはありません」
 袴木がじっと碧を見る。やがて目をそらし、深く息を吐いた。言おうとした言葉をその息の中で殺すような、長いため息だった。

「わかりました」
 袴木はそう言うと、静かに資料室を出て行った。

 約束通り、碧はアパートに帰ってすぐに退職届を書いた。
 もしかしたら、と思ったけど、暁は来なかった。
 
 そのほうがいい。絶対いい。
 テーブルの三分の一を占領している暁のCDの山から暁の匂いがしそうで、触ることも見ることもできなかった。

 突然の退職願いにだれもが驚いていた。学年主任は引き止めるというよりも激怒していた。先生がこんなすぐに辞めるなんてありえないと怒鳴られた。けれどもかまっていられなかった。最後は逃げるように学校を後にした。

 本当に、生徒よりもタチが悪い。

 同じ日に、アパートも解約した。
 以来一度もあの街に帰ってない。

 袴木はおそらく約束を守ってくれた。その証拠にあれから八年後の今日まで、碧のところに淫乱教師、という悪戯電話は一度もかかってきていない。
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