元教え子は現上司
職員室だと目立つからね。
そう言って通されたのは、あの資料室だった。机の対面に座る袴木の、痩せた喉から目元へと視線をずらしていく。
どういうつもりなんだろう。
訝りながらも、袴木の肩越しに並んだ棚を見てしまう。科目ごとに並べられた資料。碧が見ていた冊子より、当たり前だけど年度が新しくなっている。机の端には学校名のシールが貼られたiPadが置かれていて、時代の流れを感じた。
「元気でしたか」
「はい、おかげさまで」
反射的にそう口に出して頭を下げる。声がかすれた。着任した初日に、袴木の前に立って挨拶をした、あの時よりも緊張している。
なにを言われるんだろう。なにが起こるんだろう。想像もつかない。
袴木はうんうん、と数回頷いて、視線を碧の後ろの棚のほうにやった。沈黙が落ちる。
「あの、ありがとうございました」
もっと大きな声で言うつもりだったのに。震えた自分の声を聞いて、もう三十過ぎなのにと情けなくなる。袴木がじっとこちらを見ている。
「約束を守っていただいて」
この八年の間、暁とのことを誰かに聞かれたことは一度もなかった。
だれにも言わないという約束を、袴木は守ってくれた。
「いつか会うことができたら、お礼を言いたかったんです」
膝の上に置いた手の中に、ここまで持ってきてしまった少女漫画が収まっている。お守りのように、それを固く握りしめた。
袴木は再び視線を碧からそらす。
キ――ンコ――ンカ――ンコ――ン。
チャイムが、二人の間に漂う沈黙を埋めていく。いま何時だろう、とぼんやりとおもった。
「ずっと謝りたくてね」
ふいに袴木がそう言った。
言葉の意味がわからずに袴木を見返す。ガラッ。近くの教室で扉を開け閉めする音が響く。キャハハハ。誰かの笑い声と走る音。
「僕は守れなかった。君との約束を破ってしまったんですよ」
俯いた袴木は、わずかに眉間に皺を寄せた。
「え、でも――」
とまどう碧の言葉を遮るように、袴木は深く息を吐くと、碧を見た。
「話してしまったんです、本当のことを。遠野君に」
「…………え?」
予想もしなかった言葉に、袴木を見返すことしかできない。
「それって、どういう……」
尋ねるより先に、袴木は頷いた。
「君が辞めてからね、遠野君はいっとき、ずいぶん荒れた状態になってしまったんですよ」
その言葉に息を飲む。袴木は当時を思い出すように眉間に皺を寄せて、
「学校も休みがちになって、来たとしても授業は受けない。どこかにフラフラと行ってしまって、僕らの話なんて聞こうとしない」
ふっと息を吐いて、椅子の背もたれにもたれた。
「あんたたちなんて――教師なんて信じられない。そう言われましたよ」
言葉が頭の中に落ちてくる。
教師なんて信じられない。
膝の上の手が震えた。
突然碧が辞めてから、取り残された暁がどんな思いで残りの高校生活を過ごしていたか。どうしてそのことを今の今まで、きちんと考えなかったんだろう。
碧に色々なことがあったように、暁だって色んなことがあったんだ。
「数ヶ月もしない内に、留年が決定しそうなくらい出席日数が悪くなってね。僕はそのとき思ったんだ。このままじゃ良くない。君が辞めてまで守ろうとした彼の将来とか、そういうものが、無駄になってしまうと」
険しい表情で話していた袴木が、
「ちょうどその席ですよ。遠野君が座っていたのは」
懐かしむように少し眼差しを和らげて、碧の座る椅子を指さした。
そう言って通されたのは、あの資料室だった。机の対面に座る袴木の、痩せた喉から目元へと視線をずらしていく。
どういうつもりなんだろう。
訝りながらも、袴木の肩越しに並んだ棚を見てしまう。科目ごとに並べられた資料。碧が見ていた冊子より、当たり前だけど年度が新しくなっている。机の端には学校名のシールが貼られたiPadが置かれていて、時代の流れを感じた。
「元気でしたか」
「はい、おかげさまで」
反射的にそう口に出して頭を下げる。声がかすれた。着任した初日に、袴木の前に立って挨拶をした、あの時よりも緊張している。
なにを言われるんだろう。なにが起こるんだろう。想像もつかない。
袴木はうんうん、と数回頷いて、視線を碧の後ろの棚のほうにやった。沈黙が落ちる。
「あの、ありがとうございました」
もっと大きな声で言うつもりだったのに。震えた自分の声を聞いて、もう三十過ぎなのにと情けなくなる。袴木がじっとこちらを見ている。
「約束を守っていただいて」
この八年の間、暁とのことを誰かに聞かれたことは一度もなかった。
だれにも言わないという約束を、袴木は守ってくれた。
「いつか会うことができたら、お礼を言いたかったんです」
膝の上に置いた手の中に、ここまで持ってきてしまった少女漫画が収まっている。お守りのように、それを固く握りしめた。
袴木は再び視線を碧からそらす。
キ――ンコ――ンカ――ンコ――ン。
チャイムが、二人の間に漂う沈黙を埋めていく。いま何時だろう、とぼんやりとおもった。
「ずっと謝りたくてね」
ふいに袴木がそう言った。
言葉の意味がわからずに袴木を見返す。ガラッ。近くの教室で扉を開け閉めする音が響く。キャハハハ。誰かの笑い声と走る音。
「僕は守れなかった。君との約束を破ってしまったんですよ」
俯いた袴木は、わずかに眉間に皺を寄せた。
「え、でも――」
とまどう碧の言葉を遮るように、袴木は深く息を吐くと、碧を見た。
「話してしまったんです、本当のことを。遠野君に」
「…………え?」
予想もしなかった言葉に、袴木を見返すことしかできない。
「それって、どういう……」
尋ねるより先に、袴木は頷いた。
「君が辞めてからね、遠野君はいっとき、ずいぶん荒れた状態になってしまったんですよ」
その言葉に息を飲む。袴木は当時を思い出すように眉間に皺を寄せて、
「学校も休みがちになって、来たとしても授業は受けない。どこかにフラフラと行ってしまって、僕らの話なんて聞こうとしない」
ふっと息を吐いて、椅子の背もたれにもたれた。
「あんたたちなんて――教師なんて信じられない。そう言われましたよ」
言葉が頭の中に落ちてくる。
教師なんて信じられない。
膝の上の手が震えた。
突然碧が辞めてから、取り残された暁がどんな思いで残りの高校生活を過ごしていたか。どうしてそのことを今の今まで、きちんと考えなかったんだろう。
碧に色々なことがあったように、暁だって色んなことがあったんだ。
「数ヶ月もしない内に、留年が決定しそうなくらい出席日数が悪くなってね。僕はそのとき思ったんだ。このままじゃ良くない。君が辞めてまで守ろうとした彼の将来とか、そういうものが、無駄になってしまうと」
険しい表情で話していた袴木が、
「ちょうどその席ですよ。遠野君が座っていたのは」
懐かしむように少し眼差しを和らげて、碧の座る椅子を指さした。