元教え子は現上司
「小川さんの、奥様ですか」

 碧は携帯を耳にあてながら、訝るようにくり返した。隣で暁が息を飲む。電話口から、小さな声ではい、と言う声が返ってくる。

 久松碧ってあんた?
このやろう! ひとの夫に手を出して、ゆるさないよ!
 
 どくん。
 嫌な記憶がいっきに流れて、手が震えた。暁が気づいて、後ろから肩を抱く。
「貸して。代わる」
 携帯に手を伸ばす暁を見上げると、
「すみませんでした」
 通話口から、細い声が流れてきた。携帯に意識をもどす。

 呻き声と嗚咽。
 お、小川さん? どうしました? 
 慌てる瀬崎の声が小さく聞こえる。

「ずっと」
 ザッ。息が通話口に当たってるらしきノイズが大きく聞こえた。
「ずっと謝りたかった。ばかなことをしてしまったと、後悔、していました」

 時折しゃくりあげる声が聞こえ、そのたびに言葉が切れ切れになる。馨は嗚咽交じりに言った。

「小川が勝手に想ってるだけだと、わかってました。だけど止められなかった。あ、相手にもされてない人を追いかけてるなんて、そんなこと、信じたくなかった」
 あなたを悪者にしたかった。かわいそうな自分でいられれば、まだ救いがあった。
 そう言って、馨は泣いた。

 碧はじっとその言葉を聞いていた。あの夏の日、教室にびしょ濡れで入ってきた女の姿を思い浮かべる。生徒たちは泣いて、碧はすべてを失った。
「碧」
 隣で囁く声。心配そうに碧を見ている。きれいな形の目に、碧の姿が映りこんでいる。こんなに近くにいると実感して、そのことがあたたかく心を灯す。

 だけどあのことがなかったら、こうしてまた会うこともなかった。

 辛く傷ついても、この人とまた会える為の道程だったんだと思えば、意味があったと思えた。

「馨さんは、どうしてそこにいらっしゃるんですか?」
 落ち着いた声で碧は尋ねた。瀬崎は新しく担当になった、と言っていた。転職の斡旋会社に、御曹司の妻である馨に用があるとは思えなかった。

 少しの沈黙の後、馨が答えた。
「自立したいのです」

「自立?」
 はい。小さな声で馨が答えた。

「私は今までなにひとつ、自分の力で手に入れてませんでした。学校も、就職先も……夫さえも」
 すべて周りから用意されるのが当然で、それを受け入れていれば幸せになれるはずだ。そう漠然と考えていたと馨は言った。
「だけどそうじゃなかった。そう気づかされたのです」
 震える声はわずかに勢いを取り戻し、碧に手を上げた馨にあふれていた激情が滲み出ていた。
< 69 / 86 >

この作品をシェア

pagetop