元教え子は現上司
 馨は、自分の隣で年若い担当者が携帯を奪い返そうとしているのに気づき、ふっと背を向けた。

「馨さんは、どうしてそこにいらっしゃるんですか?」

 携帯電話の向こうから、久松碧の冷静な声が聞こえてくる。久しぶりに聞く彼女の声に瞳を閉じると、また涙が一筋頬を流れていく。

「自立したいのです」

 自分を見なかった両親と夫と、義父母と。固められた箱庭のなかで過ごす人生だった。夫が他の人を見ていることに気づいたときも、騒ぐつもりはなかった。そんなことをすれば、夫にも家にも迷惑がかかる。義母にも両親にもそうきつく言われた。

 逆らうつもりはなかった。ただ、私を見て。夫にそう言いたかった。
 あの日夫のもとに行くために家を出たはずなのに、どうして彼女の働く場所に行ってしまったんだろう。

 教室から聞こえる凛とした声。導かれるように、ふらふらと扉まで近寄る。
 細く開けた扉の向こうから見える女の姿。黒板に書かれたきれいな文字。生徒たちの眼差しを一身に受ける彼女の姿は、教壇の上で発光しているように眩く映った。

 うつくしい。

 反射的にそう思って、自分の身なりに目を落とす。夢中で歩いて来て、いつのまにか全身がずぶ濡れになっている。スカートの端から落ちる雨水が、ずっとずっと心に閉じ込めている涙のようにぼたぼたと落ちていった。

 もう一度教壇に立つ彼女を見る。彼女がチラリと窓の外に目を向けた。風雨を警戒するように一瞬眉を寄せたその姿が、なぜか自分の姿を否定されたような、醜悪なものを見咎められたような気もちになり、体の中で暴れ狂うものを自覚した。

 ゆるさない。

 ガラッ。
 馨は扉を開けた。教室中の視線が集まる。あの女が、久松碧が馨を見ている。

 ゆるさない。
 あんたさえいなければ。
 
 もう一度強く思った。
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