元教え子は現上司
夕方すぎに降った大雨の名残で、窓からのぞく空はどよりとしたねずみ色をしている。狭い部屋に立つ四人の間にも、外の景色と同じような重たい空気がたちこめていた。
碧は目の前の男をじっと見つめた。小川は信じられないというように、馨を凝視したまま立ち尽くしている。
「センター試験で一番恐ろしいのはケアレスミスです」
唐突に口を開いた碧を、小川は訝しげに見る。碧はかまわず続けた。
「得点の大きな問いに正解することが大事なのではなく、誰もまちがわないところでミスしないこと。これが大切なんです」
碧は俯く馨の隣に立つと、小川さん、と呼びかけた。
「あなたは夫として今、不合格です。一番話をしなければいけない相手は、私ではなく奥様です」
小川はめがねの奥の目を細めて碧を見て、直後
「ハハハッ」
めがねのツルを片手で抑えて、愉しそうに笑った。隣でビクリと馨の肩が震える。
「やっぱり碧は面白いね。いつも予想外のことを言う」
ギシッ。古いアパートの床が、小川が近づくことで音をたてる。
「碧に近寄るな」
暁が行く手を阻むように、碧の前に出た。碧はほっとして暁の背中を見つめた。
もう大丈夫。このひとがいれば。
「君、なんでここにいるの? 碧とは別れたはずだろう。それに――馨さん」
小川が馨を見て、眉間に皺を寄せる。
「ここにいること、母さんたちは知ってるんですか?」
「いえ」
馨は小さく答えると、首を横に振った。
「私一人で、ここまで来ました」
小川は息を吐いて、
「しかたありませんね。連絡しますから、迎えにきてもらいなさい」
「なぜか聞かないんですか」
碧の問いに、小川は肩をすくめる。
「さぁ。どうでもいいね。それよりも、彼のことを聞きたいな」
小川が胡乱気に暁を見る。碧は息を吐いて、一歩前に出た。その拍子に腕が暁の腕とこすれて、その些細な接触が心をほぐす。
「私は暁と別れません。彼とずっと一緒にいます」
小川の目が一瞬見開かれ、直後ふっと唇を歪める。
「いいのかい。僕は知ってるんだよ。君と彼とは」
その途端、暁が碧の肩を強く引き寄せた。頬に暁の胸があたって、その熱さを知る。
「ああ。言えよ、だれにでも! どこに知られたって恥ずかしくなんてない。俺は先生を愛してる」
真剣なんです、僕。真剣に先生のこと愛してるんです。
あの日、資料室で言われた言葉がよみがえる。碧は暁を振り返った。八年前と同じように。
暁の後ろに、制服を着た十六歳の暁の姿が重なって見える。今よりもっと線が細くて、それでも眼に宿る熱は変わらない。
碧は微笑んでいた。
そう、本当はずっと、こう言いたかった。
「私も愛してるんです、彼のこと。私たち、真剣なんです」
暁の手に触れる。すぐに絡み合った指先が愛しくて、つなぐ手に力をこめた。
「信じない。僕は認めないぞ」
小川は碧と暁を交互に見ながら、ゆっくりと首を振った。
「僕は、ずっと独りだった。あの家に産まれたときからずっと。碧、君だけなんだ」
いつも笑みを絶やさなかった目が、泣き出しそうに歪な形に変わる。
一体どうして、これほどの執着を受けることになったんだろう。愛する人に守られながら、ふらふらとこちらに歩み寄る男に憐憫にも似た想いがよぎる。
あんなに周りに人がいて、どうして自分だったのだろう。
「そんなことありません」
唐突に大きな声がして、小川が声のする方を振り返った。
馨が全身を震わせて、両手を祈るように握りしめながら俯いていた。
「私はずっと、あなたを見ていました。いつも笑顔のあなたが、本当は少しも楽しんでないことも、わかっていました」
顔を上げた馨の両目からは、涙がこぼれていた。美しく整えてきた目元の化粧は取れ、瞼の上にも下にも黒い染みのような汚れが滲んでいる。けれどふしぎと汚くは見えなかった。
「結婚しても、あなたは私を誰にも紹介しなかった。いないものとして扱われて、最初はそれでもいいと思っていました」
馨はさみしげに笑うと、
「でもいつからか、あなたに私自身を見てほしいと願うようになったんです」
ぱた、と盛り上がった涙が顎をつたう。雨粒のように、灯りをはじいて光りながら落ちていく。
「あなたを愛しているから」
小川は目を見張って妻を見つめた。まるで今はじめて、小川馨という女を見たとでも言うように。
馨は涙を拭おうともせず、ひたと小川を見つめた。
「揺らがない関係をあなたが運命と名付けて欲しがるなら、私はその相手になりたいのです」
小川は馨を見たまま、ゆっくりと肩を上下させた。わずかに開く口の間から、息とも声とも知れない音が漏れ出る。
「小川さん」
碧はゆっくりと口を開いた。目線だけで振り向いた小川の表情は固く強張っている。
はじめは人の好さそうなひとだ、と思った。友だちでいることは楽しかった。楽しかったのは、小川が本当の自分を隠していたから。
それは碧も同じだった。小川が見ていた碧は、暁という大事なピースが抜け落ちていた自分だ。
お互いごまかしていた。だから楽だし、小川はそのぬるま湯のような状態が心地よかったのかもしれないけれど。
「本当の恋は、苦しいんです。優しいことばかりじゃない」
碧はもう、そのことを知っているから。
守ろうとしても、相手を傷つけることもある。相手の心がわからず、悲しむこともある。
すれちがって、泣きながら、それでも求めてしまう、この心は一体なんなのか。
それはきっと、だれも解くことのできない問いなのだ。
だからずっと、問い続けていきたい。自分の胸を焦がす、たった一人のひとのために。
暁が碧を見下ろしている。痛みを我慢するような顔。
そんな顔しないでほしい。
守るように、心の一部を預けるように、碧は暁に笑いかけた。
「それでも、こんなに嬉しい」
はじまりは生徒と先生だった。かんたんな恋じゃなかった。それでも、この恋がよかった。
ほかのだれかじゃない、遠野暁を好きになれてよかった。
小川を振り返る。眼鏡の向こうの目をみつめ、はっきりと言った。
「あなたとはお付き合いできません」
小川は黙って目を閉じた。言葉を反芻しているような間の後、目を開くと暁を見た。
「君は迷わなかったのか」
暁の目が僅かに見開かれる。
「先生だったんだろう。歳も上だ。なぜ彼女だったんだ」
めがねの向こうで、小川はじっと暁を見る。なにかを推し量ろうとでもするように。
「なんで、なんて」
暁がゆっくりと口を開く。
「そんなのわからない。こっちが教えてほしいくらいだ」
暁は碧の上に乗せた掌の指先を少し動かした。指先が宥めるように碧の肩を撫でる。
「ただ俺にとって、このひとだったんだ。さわりたいとか、そばにいたいとか思うのは」
左上から落ちてくる言葉が、碧の目元を潤ませる。肩に回されていた手が離れてそのまま親指が碧の目尻を拭う。
「先生と生徒とか、歳が離れてるとか、どうでもよかった。こうだから好きになったなんて言えない。本当にわからないんだ」
碧を見つめたまま、暁が柔らかく笑う。高校生の時にはなかった表情。おとなになった暁にもう一度告白されているような、そんな気がした。
「碧だから、好きなんだ」
言葉が心に落ちてくる。しあわせだ、と思った。古いアパートのなか、もう二度と会いたくなかったひとを前にして。
どんなときでも暁がそばにいる限り、幸せだと思えた。
それ以上は誰もなにも言わなかった。小川は目をそらし、ふらりと背を向けて玄関扉に手をかけた。カチャリ。沈黙した室内に、ドアノブを回す音が小さく響く。
「まって」
そう声を上げたのは馨だ。けれどその声を振り切るように、立て付けの悪い扉が大きな音をたてた。
バタン。
扉の向こうに小川が消えていく。廊下を歩く音が聞こえて、碧は体の力が抜けた。暁の肩に頭を寄せると、暁は腕を回して碧を抱きしめた。
小さな子どもにするように、片方の手で頭を撫でられる。年上なのに、元先生なのに。そんな言葉が頭の片隅に浮かんだけど、浮かんだだけで両手は暁に縋るように背中を掴んだ。
「行ってしまった」
馨がぽつりとつぶやいた、その声で顔を上げる。
「追いかけたらいいじゃないですか」
碧を抱いたまま暁は言った。
「俺の経験上、八年くらいなら諦めずにいられますよ。どんなに遠く離れていても」
そう言って笑う暁を見て、胸が甘く苦しく疼く。
八年たっても戻ってこれた。だから。
あなたが私の運命のひと。
碧は目の前の男をじっと見つめた。小川は信じられないというように、馨を凝視したまま立ち尽くしている。
「センター試験で一番恐ろしいのはケアレスミスです」
唐突に口を開いた碧を、小川は訝しげに見る。碧はかまわず続けた。
「得点の大きな問いに正解することが大事なのではなく、誰もまちがわないところでミスしないこと。これが大切なんです」
碧は俯く馨の隣に立つと、小川さん、と呼びかけた。
「あなたは夫として今、不合格です。一番話をしなければいけない相手は、私ではなく奥様です」
小川はめがねの奥の目を細めて碧を見て、直後
「ハハハッ」
めがねのツルを片手で抑えて、愉しそうに笑った。隣でビクリと馨の肩が震える。
「やっぱり碧は面白いね。いつも予想外のことを言う」
ギシッ。古いアパートの床が、小川が近づくことで音をたてる。
「碧に近寄るな」
暁が行く手を阻むように、碧の前に出た。碧はほっとして暁の背中を見つめた。
もう大丈夫。このひとがいれば。
「君、なんでここにいるの? 碧とは別れたはずだろう。それに――馨さん」
小川が馨を見て、眉間に皺を寄せる。
「ここにいること、母さんたちは知ってるんですか?」
「いえ」
馨は小さく答えると、首を横に振った。
「私一人で、ここまで来ました」
小川は息を吐いて、
「しかたありませんね。連絡しますから、迎えにきてもらいなさい」
「なぜか聞かないんですか」
碧の問いに、小川は肩をすくめる。
「さぁ。どうでもいいね。それよりも、彼のことを聞きたいな」
小川が胡乱気に暁を見る。碧は息を吐いて、一歩前に出た。その拍子に腕が暁の腕とこすれて、その些細な接触が心をほぐす。
「私は暁と別れません。彼とずっと一緒にいます」
小川の目が一瞬見開かれ、直後ふっと唇を歪める。
「いいのかい。僕は知ってるんだよ。君と彼とは」
その途端、暁が碧の肩を強く引き寄せた。頬に暁の胸があたって、その熱さを知る。
「ああ。言えよ、だれにでも! どこに知られたって恥ずかしくなんてない。俺は先生を愛してる」
真剣なんです、僕。真剣に先生のこと愛してるんです。
あの日、資料室で言われた言葉がよみがえる。碧は暁を振り返った。八年前と同じように。
暁の後ろに、制服を着た十六歳の暁の姿が重なって見える。今よりもっと線が細くて、それでも眼に宿る熱は変わらない。
碧は微笑んでいた。
そう、本当はずっと、こう言いたかった。
「私も愛してるんです、彼のこと。私たち、真剣なんです」
暁の手に触れる。すぐに絡み合った指先が愛しくて、つなぐ手に力をこめた。
「信じない。僕は認めないぞ」
小川は碧と暁を交互に見ながら、ゆっくりと首を振った。
「僕は、ずっと独りだった。あの家に産まれたときからずっと。碧、君だけなんだ」
いつも笑みを絶やさなかった目が、泣き出しそうに歪な形に変わる。
一体どうして、これほどの執着を受けることになったんだろう。愛する人に守られながら、ふらふらとこちらに歩み寄る男に憐憫にも似た想いがよぎる。
あんなに周りに人がいて、どうして自分だったのだろう。
「そんなことありません」
唐突に大きな声がして、小川が声のする方を振り返った。
馨が全身を震わせて、両手を祈るように握りしめながら俯いていた。
「私はずっと、あなたを見ていました。いつも笑顔のあなたが、本当は少しも楽しんでないことも、わかっていました」
顔を上げた馨の両目からは、涙がこぼれていた。美しく整えてきた目元の化粧は取れ、瞼の上にも下にも黒い染みのような汚れが滲んでいる。けれどふしぎと汚くは見えなかった。
「結婚しても、あなたは私を誰にも紹介しなかった。いないものとして扱われて、最初はそれでもいいと思っていました」
馨はさみしげに笑うと、
「でもいつからか、あなたに私自身を見てほしいと願うようになったんです」
ぱた、と盛り上がった涙が顎をつたう。雨粒のように、灯りをはじいて光りながら落ちていく。
「あなたを愛しているから」
小川は目を見張って妻を見つめた。まるで今はじめて、小川馨という女を見たとでも言うように。
馨は涙を拭おうともせず、ひたと小川を見つめた。
「揺らがない関係をあなたが運命と名付けて欲しがるなら、私はその相手になりたいのです」
小川は馨を見たまま、ゆっくりと肩を上下させた。わずかに開く口の間から、息とも声とも知れない音が漏れ出る。
「小川さん」
碧はゆっくりと口を開いた。目線だけで振り向いた小川の表情は固く強張っている。
はじめは人の好さそうなひとだ、と思った。友だちでいることは楽しかった。楽しかったのは、小川が本当の自分を隠していたから。
それは碧も同じだった。小川が見ていた碧は、暁という大事なピースが抜け落ちていた自分だ。
お互いごまかしていた。だから楽だし、小川はそのぬるま湯のような状態が心地よかったのかもしれないけれど。
「本当の恋は、苦しいんです。優しいことばかりじゃない」
碧はもう、そのことを知っているから。
守ろうとしても、相手を傷つけることもある。相手の心がわからず、悲しむこともある。
すれちがって、泣きながら、それでも求めてしまう、この心は一体なんなのか。
それはきっと、だれも解くことのできない問いなのだ。
だからずっと、問い続けていきたい。自分の胸を焦がす、たった一人のひとのために。
暁が碧を見下ろしている。痛みを我慢するような顔。
そんな顔しないでほしい。
守るように、心の一部を預けるように、碧は暁に笑いかけた。
「それでも、こんなに嬉しい」
はじまりは生徒と先生だった。かんたんな恋じゃなかった。それでも、この恋がよかった。
ほかのだれかじゃない、遠野暁を好きになれてよかった。
小川を振り返る。眼鏡の向こうの目をみつめ、はっきりと言った。
「あなたとはお付き合いできません」
小川は黙って目を閉じた。言葉を反芻しているような間の後、目を開くと暁を見た。
「君は迷わなかったのか」
暁の目が僅かに見開かれる。
「先生だったんだろう。歳も上だ。なぜ彼女だったんだ」
めがねの向こうで、小川はじっと暁を見る。なにかを推し量ろうとでもするように。
「なんで、なんて」
暁がゆっくりと口を開く。
「そんなのわからない。こっちが教えてほしいくらいだ」
暁は碧の上に乗せた掌の指先を少し動かした。指先が宥めるように碧の肩を撫でる。
「ただ俺にとって、このひとだったんだ。さわりたいとか、そばにいたいとか思うのは」
左上から落ちてくる言葉が、碧の目元を潤ませる。肩に回されていた手が離れてそのまま親指が碧の目尻を拭う。
「先生と生徒とか、歳が離れてるとか、どうでもよかった。こうだから好きになったなんて言えない。本当にわからないんだ」
碧を見つめたまま、暁が柔らかく笑う。高校生の時にはなかった表情。おとなになった暁にもう一度告白されているような、そんな気がした。
「碧だから、好きなんだ」
言葉が心に落ちてくる。しあわせだ、と思った。古いアパートのなか、もう二度と会いたくなかったひとを前にして。
どんなときでも暁がそばにいる限り、幸せだと思えた。
それ以上は誰もなにも言わなかった。小川は目をそらし、ふらりと背を向けて玄関扉に手をかけた。カチャリ。沈黙した室内に、ドアノブを回す音が小さく響く。
「まって」
そう声を上げたのは馨だ。けれどその声を振り切るように、立て付けの悪い扉が大きな音をたてた。
バタン。
扉の向こうに小川が消えていく。廊下を歩く音が聞こえて、碧は体の力が抜けた。暁の肩に頭を寄せると、暁は腕を回して碧を抱きしめた。
小さな子どもにするように、片方の手で頭を撫でられる。年上なのに、元先生なのに。そんな言葉が頭の片隅に浮かんだけど、浮かんだだけで両手は暁に縋るように背中を掴んだ。
「行ってしまった」
馨がぽつりとつぶやいた、その声で顔を上げる。
「追いかけたらいいじゃないですか」
碧を抱いたまま暁は言った。
「俺の経験上、八年くらいなら諦めずにいられますよ。どんなに遠く離れていても」
そう言って笑う暁を見て、胸が甘く苦しく疼く。
八年たっても戻ってこれた。だから。
あなたが私の運命のひと。