元教え子は現上司
 部屋にはなにもなかった。

 家具も、電化製品も、なにもない。からっぽの空間に、カーテンのない窓が四角い光を落としていた。

 部屋の中央でぼうっと立ちながら、あ、靴、と思う。違和感の正体はこれだった。玄関にあるはずの暁の靴が一足もなかった。

 どういうこと?

「碧」

 振り返ると、暁が鞄から封筒を取りだしていた。中から出てきた資料を見て――乾いた喉が鳴った。
 
 マンション賃貸契約書 

 世帯主の名前は遠野暁。その隣の同居者の欄に、久松碧と名前が書かれていた。

 暁は照れたように髪をくしゃりとかいて笑った。
「実はこの間の朝、アパート見に行ってたんだ。ちょうど良いのがあったから、契約してきた」
 この間というのは、暁が碧の隣で目をさました、あの朝のことだろう。

 勝手にごめん、と暁は笑って続ける。
「一緒に暮らそう。あんなボロアパート、さっさと出ようぜ」
「……打ち合わせだって言ってたのに」
 じわりと目が熱を帯びる。それをごまかすように拗ねた口調で返すと、暁は悪びれず笑って頷く。
「うん、嘘」

 さっきやっと鍵もらえたからさ、早く見せたかったんだよと言われればそれ以上なにも言えない。親と再会した迷子の子どものように、力いっぱい抱きついた。
 
「うそつき」

 甘えた声が出る。低く笑う声が耳をくすぐった。心地いい声と温度に目を閉じていると、
「碧」
 暁が笑みを消した、真剣な表情で碧を見下ろしていた。

「俺、もっとがんばるから」
「え?」
 問うように暁を見上げる。黒い目が揺らめいている。緊張したように強張る顔。その表情の意味を見出せないまま、暁が言葉を継ぐ。

「仕事もっとがんばるよ。失敗することもあるけど、こうやってまた、新しい取引も始まるし」
 暁の手が、碧の指先を掴んだ。その手は思いのほか冷たかった。
「クレバの契約のこと」

 つかまれた指先が微かに揺れる。あれからその話をきちんとしたことはなかった。

 自分の所為で、彼が大きな契約を逃した。その事実はどうあっても消せない。そのことを思う時、心は少し、固くなった。

 碧の不安を取り去るように、暁は穏やかに笑った。
「俺、後悔してないよ。仕事大事だけど、碧のほうがもっと大切だから」

 冷たい指先が碧の指に絡まる。暁の笑みを、ぼんやりと見上げていた。

「だから、碧ももう気にしないで。先のことだけ、一緒に考えて」

 暁の言葉が落ちて心に溶けていく。つないだ手に力をこめて、愛しい人を見上げた。

 この八年間ずっと、過去のことばかり考えていた。でもこれからはそうじゃない。

 未来のことを考えられる。このひとと一緒なら。

「だから、これさ」
 暁が契約書に目を落として、そのまま言葉を探るように押し黙る。前髪が作る影の所為か、不安げな表情にも見えた。
 暁の指が、碧の名前が書かれた欄の隣を示す。同居人と書かれている、世帯主との続き柄を示す欄。

「ここに、妻って書いてもいいか」

 ブゥゥン。大通りを走るトラックの音が聞こえた。幼稚園が近いのか、子どもたちの笑い声が風に乗ってここまで届く。

 目の前を、いくつかの光景が通り過ぎていった。八年前の資料室。土下座する細い体。目の前で閉じられた扉。面接のときの冷たい目。庇ってくれた熱い腕。タコが嫌いなこと。
 泣いてくれたこと。笑ってくれたこと。想ってくれたこと。

 ぽた、と涙が真新しい床に落ちる。空っぽの部屋で見つめ合って、二人だけで挙げる結婚式みたいだ。そんなことを言ったら、君はどんな顔をするだろう。

 腕を伸ばして暁の胸に飛びこむ。すぐに同じくらい強く、熱く抱きしめ返される。何度も頷くと、お互いの髪がこすれあって頬に優しく絡まった。
 頬に貼りついた髪を、暁がそっと取る。黒い目に間近で見つめられて、はじめてキスされた日のことがよみがえる。
 やがてすぐに唇に熱がともる。すき間なく抱きしめて、くり返されるキスが愛してるを伝えあう。

「ありがとう」

 このひとに教えられている。ひとを愛するということを。

 恋人は元教え子。現上司で恋人で――これからは夫となるその人を、碧はもう一度抱きしめた。



 ――END――
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