元教え子は現上司
「――の君。遠野君」
あたたかい水の中でたゆたっていた意識に、だれかの声が溶け混ざる。同時に机の上で組んでいた腕を揺り動かされ、暁は目を薄く開いた。
「ちょっと、起きてってば」
肘が痛いな、とぼんやり思う。枕代わりに重ねていた腕は、頭の体重を受けながら机の角に押し付けられていたようで、痺れと共に鈍い傷みがあった。そこを片手で撫でながら、すぐ脇に立つその人を見上げる。
「もうみんな行っちゃったよ。次体育でしょう」
呆れたように言う彼女の長い髪が、窓から吹く風でふわりと揺れた。それをぼうっと見ながら、たいく、と言われたことを脳内で繰り返す。
昨日夜思い立って、部屋にある洋楽のコレクションを年代別に整理していた。そうしてたら途中から「これ久しぶりに聞こうかな」とか「これのコピー版てだれが歌ってんだっけ」とか横道に逸れていって、結局夜中過ぎまで音楽を聞いていた。途中からイヤホンを付けていたけど、朝母親にいったい何時まで起きてたのよ、と小言を言われた。
そんなことがあったから、一時間目の現代文は始まったことも記憶にない。
暁は黙ったまま教室に目をやる。ごちゃごちゃと乱れた机と椅子が、人数分並んでいる。クラスメイトは誰もおらず、更衣室に向かっているらしい。廊下を走る生徒たちの笑い声が聞こえる。
「ほら、早く行かないと間に合わないよ」
反応のない暁に焦れたのか、彼女が言葉を重ねる。暁は振り返って、
「先生」
彼女を呼んだ。
久松碧。暁の学校に四月から赴任してきた新任教師。みんなと同じ一年生です、と言ってたのは二回前の授業のとき。間近で見るのは今日がはじめてだった。
呼ばれたから暁を見つめる。ごく当たり前の反応なのに、彼女の丸い形の目がこちらを見下ろすと少し身じろぎした。ようやく眠りから覚醒した頭で、さして話もしたことのない教師と二人きりでいる、ということを意識した。
教壇に立ってるときより、小さく見える。そしてこれはなんだろう、なんだか良い匂いがする。窓から入ってくる新緑の香りと溶けあって、ふしぎに柔らかな香りだ。
「あの、俺、に話あるんですか」
自分で言いながら変な質問だと思った。彼女もそう思ったのか、小動物のように無邪気な目で暁を見ている。
「俺、ずっと寝てたから」
クラスメイトが皆移動してしまった後も暁を待っていたのは、説教か、宿題を多めに出すとか、そういう類の話だろう。夜型の暁が授業中爆睡してしまって、その後で教師に小言を頂戴するのは中学の時にも何度かあったことだ。
ああ、と合点が言ったように彼女は頷いて、それから小さく笑い声を上げた。
「べつにないよ。そうだなぁ、あえて言えば、ごめんね、かな」
予想外の返事に、知らず机に落としていた視線を上に上げる。
彼女は――碧は、照れたようにはにかんだ笑いを浮かべていた。
「すごく気持ちよさそうに寝てたから、起こせなかったんだよね。でも今日やったとこ中間に出すし、そう考えると叩いてでも起こした方が結果的には良かったのかなって、今思った」
あ、叩いちゃだめなんだった、そういえば、と碧はひとりごちる。
さ
キツネとか、そっち系の目だよなおまえって、と中学時代友だちに言われた切れ長の目を僅かに見張る暁には気づかず、碧は続ける。
「今だって、本当はもうちょっと早く起こすつもりだったんだけど、私まだあんまり慣れてないからさ。次の授業のこととか考えてたら、皆いなくなっちゃってて」
へにゃり、と気の弱い子どものように笑う碧は無防備に見えた。碧が教壇を振り返る。教壇には遠目から見ても沢山の付箋のついた冊子が、開いたままの状態で置かれていた。教壇を見る碧の顔に笑顔はなく、少しの疲れと緊張が見えた。あんまり慣れてないから。言われた言葉を頭の中で反芻する。
「すいません」
気がつけば小さく言っていた。碧は振り返って、言葉の意味を探るように暁を見る。暁はなんとなく目線を合わせることができず、机の上で握った拳を見ていた。
もう次から、寝ないようにします。頭の中で流れた言葉を口にすることはできず、代わりに椅子を引いて立ち上がった。横目で見た碧はやっぱり背が低く、自分の鎖骨辺りに頭がある。先生、ちっちぇえ。その言葉も心の内だけでつぶやく。
キーンコーンカーンコーン。始業を告げる鐘の音に、黙っていた碧もハッとしたように顔を上げる。
「それじゃ、遅れないようにね」
もう充分遅れているのだけど、反射のように碧はそう言って背を向けた。教壇に駆け寄ると開いたままの冊子を見ながら、周りに置いてある教科書や筆記用具を閉まっている。少しだけその後ろ姿を見ていたけど、碧が再びこちらを振り返ることはなかった。
それ以来、どんなに眠くても現代文の授業で寝ることはなかった。ついでにほかの教科も真面目に聞くようになった。センセイも大変なんだよなぁ、なんて思ったりしながら。
あたたかい水の中でたゆたっていた意識に、だれかの声が溶け混ざる。同時に机の上で組んでいた腕を揺り動かされ、暁は目を薄く開いた。
「ちょっと、起きてってば」
肘が痛いな、とぼんやり思う。枕代わりに重ねていた腕は、頭の体重を受けながら机の角に押し付けられていたようで、痺れと共に鈍い傷みがあった。そこを片手で撫でながら、すぐ脇に立つその人を見上げる。
「もうみんな行っちゃったよ。次体育でしょう」
呆れたように言う彼女の長い髪が、窓から吹く風でふわりと揺れた。それをぼうっと見ながら、たいく、と言われたことを脳内で繰り返す。
昨日夜思い立って、部屋にある洋楽のコレクションを年代別に整理していた。そうしてたら途中から「これ久しぶりに聞こうかな」とか「これのコピー版てだれが歌ってんだっけ」とか横道に逸れていって、結局夜中過ぎまで音楽を聞いていた。途中からイヤホンを付けていたけど、朝母親にいったい何時まで起きてたのよ、と小言を言われた。
そんなことがあったから、一時間目の現代文は始まったことも記憶にない。
暁は黙ったまま教室に目をやる。ごちゃごちゃと乱れた机と椅子が、人数分並んでいる。クラスメイトは誰もおらず、更衣室に向かっているらしい。廊下を走る生徒たちの笑い声が聞こえる。
「ほら、早く行かないと間に合わないよ」
反応のない暁に焦れたのか、彼女が言葉を重ねる。暁は振り返って、
「先生」
彼女を呼んだ。
久松碧。暁の学校に四月から赴任してきた新任教師。みんなと同じ一年生です、と言ってたのは二回前の授業のとき。間近で見るのは今日がはじめてだった。
呼ばれたから暁を見つめる。ごく当たり前の反応なのに、彼女の丸い形の目がこちらを見下ろすと少し身じろぎした。ようやく眠りから覚醒した頭で、さして話もしたことのない教師と二人きりでいる、ということを意識した。
教壇に立ってるときより、小さく見える。そしてこれはなんだろう、なんだか良い匂いがする。窓から入ってくる新緑の香りと溶けあって、ふしぎに柔らかな香りだ。
「あの、俺、に話あるんですか」
自分で言いながら変な質問だと思った。彼女もそう思ったのか、小動物のように無邪気な目で暁を見ている。
「俺、ずっと寝てたから」
クラスメイトが皆移動してしまった後も暁を待っていたのは、説教か、宿題を多めに出すとか、そういう類の話だろう。夜型の暁が授業中爆睡してしまって、その後で教師に小言を頂戴するのは中学の時にも何度かあったことだ。
ああ、と合点が言ったように彼女は頷いて、それから小さく笑い声を上げた。
「べつにないよ。そうだなぁ、あえて言えば、ごめんね、かな」
予想外の返事に、知らず机に落としていた視線を上に上げる。
彼女は――碧は、照れたようにはにかんだ笑いを浮かべていた。
「すごく気持ちよさそうに寝てたから、起こせなかったんだよね。でも今日やったとこ中間に出すし、そう考えると叩いてでも起こした方が結果的には良かったのかなって、今思った」
あ、叩いちゃだめなんだった、そういえば、と碧はひとりごちる。
さ
キツネとか、そっち系の目だよなおまえって、と中学時代友だちに言われた切れ長の目を僅かに見張る暁には気づかず、碧は続ける。
「今だって、本当はもうちょっと早く起こすつもりだったんだけど、私まだあんまり慣れてないからさ。次の授業のこととか考えてたら、皆いなくなっちゃってて」
へにゃり、と気の弱い子どものように笑う碧は無防備に見えた。碧が教壇を振り返る。教壇には遠目から見ても沢山の付箋のついた冊子が、開いたままの状態で置かれていた。教壇を見る碧の顔に笑顔はなく、少しの疲れと緊張が見えた。あんまり慣れてないから。言われた言葉を頭の中で反芻する。
「すいません」
気がつけば小さく言っていた。碧は振り返って、言葉の意味を探るように暁を見る。暁はなんとなく目線を合わせることができず、机の上で握った拳を見ていた。
もう次から、寝ないようにします。頭の中で流れた言葉を口にすることはできず、代わりに椅子を引いて立ち上がった。横目で見た碧はやっぱり背が低く、自分の鎖骨辺りに頭がある。先生、ちっちぇえ。その言葉も心の内だけでつぶやく。
キーンコーンカーンコーン。始業を告げる鐘の音に、黙っていた碧もハッとしたように顔を上げる。
「それじゃ、遅れないようにね」
もう充分遅れているのだけど、反射のように碧はそう言って背を向けた。教壇に駆け寄ると開いたままの冊子を見ながら、周りに置いてある教科書や筆記用具を閉まっている。少しだけその後ろ姿を見ていたけど、碧が再びこちらを振り返ることはなかった。
それ以来、どんなに眠くても現代文の授業で寝ることはなかった。ついでにほかの教科も真面目に聞くようになった。センセイも大変なんだよなぁ、なんて思ったりしながら。