おじさまと恋におちる31の方法
モダンなジャズが満ちるこの空間の中。
物静かな『教授』との時間は、最近の紗江の楽しみだった。
彼の端正な横顔をチラチラと見つつ、「世の中で流行っている『アラフォー萌え』ってこんな感じの人のことを言うのかしら」と思う。
滑らかに動く万年筆の書き音を片耳に聴きながら「この人は、何の仕事をしているのだろう。もしかしたら小説家とか」と取り留めのない妄想をしたりする。
そんな無駄な時間は、何よりも彼女の知的好奇心と、彼への淡い憧れを満足させる。
この『教授』はどことなく、紗江が学生の頃憧れだった現代国語の教師の面影を匂わせていた。
皿5枚とグラスを3つ拭き終わった所で、店に満ちていた音符の波がふいに途切れる。
その静寂と同時に気付いたのは、静かな雨音だった。
「…………」
そういえば今日の夕方は雨の予報だったな、と思い出し、ふと視線を雨滲む窓へと向ける。
柔らかな雨音が耳を撫でる中で、『教授』の視線が紗江のそれとかち合った。
一瞬たじろいだ彼女とは反対に、『教授』は一呼吸、のちに柔らかく目尻を歪ませる。実に淡麗に。
「とうとう降ってきたねえ」
ほんの少し曲調が変わったBGMに紛れたのは、低くも穏やかな『教授』の声だった。
まるで冗談でも言っているような呑気な口調だった。
『アメリカンをひとつ』。
いつものオーダー以外の文句を奏でた声に、紗江の背は思わず震える。
営業用の笑顔を咄嗟に作り、彼に言葉を返した。
「予報通りですね」
「ここに来る前から、空模様が怪しかったんだけど」
「傘はお持ちですか」
彼女の問いに、『教授』は少し困ったような笑みを浮かべ、肩をすくめた。
「いや、…今朝の天気予報を見逃してしまったんだ」
「ああ、そうですか…それは」
初めて『教授』と繋いだ会話の糸は、それきり切れてしまった。
彼は再び視線を自身のノートへ移し、「傘が無い」と言う程にはさほど困っていないかのように、もう窓の外へ目を向けることはなかった。
「…………」
手持無沙汰になった両手が、何だか妙にこそばゆい。
紗江はチラリと休憩室を見やる。
マスターはまだまかないを食べているだろう。