結婚前夜ーー旦那様は高校生ーー
ビーフシチュー。手巻寿司。ロールキャベツ。夕飯は夏帆の好きなものばかりだった。
「やべぇうまそー」
悠樹が食卓に着くなり騒ぐ。こういうところを見ると、ああ高校生だなぁとおもう。ほらほら、手を洗ってきなさいと言う母は本当の親のようだ。
テーブルについた父はビーフシチューを一口すすると、小さく頷いた。
「NACLがよく配合されてる」
NACL。
塩化ナトリウム、イコール塩分。塩気がきいてるね、という意味だ。
味の感想に化学記号を用いてくる父。根っからの仕事人間だと思う。研究所での調味料の試飲は、飲むのではなく舐める程度らしい。だからなのか、シチューのような汁物は舌先ですくうように舐めて、爬虫類が食事してるみたいに見える。夏帆たち母子が悠樹の食べっぷりを好ましくおもうのは、仕事の延長のように食事する父に慣れていた反動もあるかもしれない。
「この手巻き寿司特売だったの」
母が手巻き寿司の包みを剥がしながら言う。
「ツナと納豆しか無いかとおもったら鈴木さんが担当だったから裏まで行って見てきてくれて、このサーモンおまけしてくれたの。鈴木さんってお母さんのコーラス友だちでね、あそこでパートしてるのよ。もう長いみたい。あ、悠樹君おかわりする? 夏帆醤油取って、そっちじゃなくてパックに入ってる方。先に使い切りたいから」
いつもの通り母が一人でしゃべる食卓。変わらない夕食の光景だった。
変わったのは、食事も中盤になってきたときのことだ。黙って立ち上がった父が冷蔵庫に行って戻ってくると、
ドン。
無言で日本酒の瓶をテーブルに置いた。
え? とおもって父を見上げると、
「飲むぞ」
父はぼそりと呟いて、おもむろにお猪口を悠樹に手渡した。おもわずという感じでお猪口を受け取る悠樹。
「お父さん? なにしてんの」
驚いて言うと、父はめがねの向こうからじろっと夏帆を見下ろした。
「父さんは、彼と飲まなくちゃいけないんだ」
「はぁ?」
大きな声が出た。さっき目の前で飲んでたの、昼間と同じ麦茶だとおもってたけど実はウィスキーとかだったんだろうか。
「なに言ってんの」
「夏帆」
父の向こうから、悠樹が朗らかに言った。
「大丈夫だよ。俺そんなに弱くないし」
「え」
目を丸くしてると、ほらな、と父が言う。ほらなじゃないよほらなじゃ。助けを求めるように母を見ると、諦めたようにため息をついた。
「好きにしなさい。言ってもどうせ無駄なんだから」
「そんな」
なんなのこれ。お父さんってば仁侠映画の人たちみたいに、固めの杯でもしようっていうんだろうか。悠樹は未成年なのに。
夏帆の心配をよそに、父は悠樹の持つお猪口に日本酒を並々と注ぐ。悠樹は平然と溢れかえりそうな酒を見つめ、そのままひと息で飲み干した。
「ちょっと!」
「あらすごい」
目を剥く夏帆の横で、母が感心したように手を叩いた。父が意外そうに悠樹を見つめるなか、当の本人は空のお猪口を片手ににっこり笑う。
「うまいですね。俺はもっと辛いのも好きなんですけど」
父の目がわずかに見開かれる。推し量るように悠樹をじっと見た後、少し低い声で言った。
「冷蔵庫に、もっと強いのもある。新潟の工場に行ったときに買ってきたやつが」
「お父さん!」
耐え切れず、夏帆はするどい声を出した。
「いい加減にしてよ。悠樹はまだ」
「子どもだなんて言わせんぞ」
父はめがね越しにじろっと夏帆を睨んだ。
「夏帆も、彼を子どもだと思ってないからするわけだろう」
なにを、とは言わなかった。夏帆はその言葉に、開きかけた口を閉じる。
でもだからって、結婚式の前夜に飲酒を強要する理由にはならない。悠樹の両親だって、明日息子が酒臭かったら仰天するだろう。
「夏帆、だいじょうぶだよ」
細い指と対照的な大きな手が、夏帆の手を包み込んだ。目線を上げると、ただの水を飲んだような平然とした顔で悠樹が笑っていた。
「平気だよ、このくらい。田舎じゃ小さいときから飲まされてたし。それに」
手を繋ぎあう二人をしかめっ面で見ている父に向かって笑う。
「俺うれしいんだ。お父さんからはじめて酒に誘われたんだから」
「お父さんと呼ぶな!」
自分のお猪口にお酒を注ぎながら父が返す。母は会話には入らず、さっさとご飯を食べ始めている。夏帆もため息をつくと、母にならって箸を手に取った。
好きにしたらいい。男って時々ほんとにばかなんだから。
カチン、とガラスのお猪口同士がかち合う音がした。はじまったばかりの夜。
そんなまずそうにするなら飲まなきゃいいのに。
父のぶすっとした顔を見ながら、シチューをすする。夏帆が一人でつくるビーフシチューはどうしてもこの味にならない。材料は同じなはずなのに。NACLが足りないんだろうか、と父のように思ってみる。
「夏帆」
母に呼ばれて振り返る。母は薄く笑っていた。手元のシチューに視線を落として、
「このニンジンね、悠樹君のお父さんが送ってくれたの」
「え?」
手元のをまじまじと見る。先が丸くなったごろごろ切られたニンジン。シチューの中にあっても甘さが感じられた。
母はこっちのキャベツもそう、とロールキャベツを指さした。
「ご近所に農家が多いんだって。いっぱいもらったからって」
「なんで」
言ってすぐ後悔した。ちがう、そんな風に聞きたかったんじゃないのに。
「そりゃ、おいしいもの食べてほしいと思うからでしょ」
母はチラッと悠樹を見る。
「あっちはまだご両親もお若いから、そりゃあ思うことも多かったんじゃない」
早くも呂律が怪しくなってきた父が悠樹に絡んでる。笑いながらそれをかわす悠樹。
悠樹を見ながら、母が言った。
「いろいろ言ったけど、お母さん信じてるから。夏帆と、夏帆が選んだひとのこと」
――お母さん。
母をじっと見る。昔より目の下がたるんでいる。悠樹を紹介したこの一年で、急に老けた気がする。あまり考えたくないことだったけど。
「幸せになりなさい。これは義務よ、あんたたちの」
ビーフシチューのなかにぱたっと涙が落ちていった。ふいに色々な記憶が走馬灯のように駆け巡る。
幼稚園に行きたくなくて、お母さんに抱っこをせがんだ小さい頃。風邪で熱を出すとお父さんが必ずアイスクリームを買ってくれた。悠樹が踊っていたあの庭で、朝顔の観察日記をした。はじめて好きな人と一緒に帰ったところをお父さんに見られた日、恥ずかしくて一週間口をきかなかった。
かほ、おとうさんと結婚する。
そんなふうに言って父に抱きついて、母は笑っていた。
あの日から、なんて遠くまで来てしまったんだろう。
ぽちゃり、ぽちゃりと涙の落ちる音。
あぁやだな。最後じゃん。
こんなふうに家族でご飯を食べるの、最後なんじゃん。
いつの間にか悠樹と父の会話も止まっていた。
ふいに悠樹が座ったまま後ろに下がると、あぐらをかいていた足を崩して正座した。両手を両膝に置いて、夏帆と両親を見る。
「俺、必ず夏帆を、夏帆さんを幸せにします!」
「当然だ!」
間髪入れず父が怒鳴った。めがねの向こうの赤い目に、うっすら涙が滲んでるように見えるのは気のせいだろうか。
「こんなことになって、それで幸せにできなかったらな、どこにいたって追いかけてぶん殴ってやるからな」
いつもの父とは思えない発言。
やっぱり酔ってるよお父さん。
涙のたまった目で父を見る。悠樹は黙って深々と頭を下げた。長い前髪がその表情を覆う。
「約束します」
深い声。父の言うとおりだ。少年だった彼は、いつの間にか大人の男のひとのようになっていた。
夏帆も悠樹の隣に座って、一緒にお辞儀をした。
今日までありがとうございました。
頭によぎった言葉はどうしても言えなかった。胸がいっぱいで、言葉の出るすき間なんて無いような気がした。下げた頭の向こうで、鼻をすする音がする。
幸せになろう。絶対に。
唇の端に流れ落ちた涙は、ふしぎと甘やかな味がした。
「やべぇうまそー」
悠樹が食卓に着くなり騒ぐ。こういうところを見ると、ああ高校生だなぁとおもう。ほらほら、手を洗ってきなさいと言う母は本当の親のようだ。
テーブルについた父はビーフシチューを一口すすると、小さく頷いた。
「NACLがよく配合されてる」
NACL。
塩化ナトリウム、イコール塩分。塩気がきいてるね、という意味だ。
味の感想に化学記号を用いてくる父。根っからの仕事人間だと思う。研究所での調味料の試飲は、飲むのではなく舐める程度らしい。だからなのか、シチューのような汁物は舌先ですくうように舐めて、爬虫類が食事してるみたいに見える。夏帆たち母子が悠樹の食べっぷりを好ましくおもうのは、仕事の延長のように食事する父に慣れていた反動もあるかもしれない。
「この手巻き寿司特売だったの」
母が手巻き寿司の包みを剥がしながら言う。
「ツナと納豆しか無いかとおもったら鈴木さんが担当だったから裏まで行って見てきてくれて、このサーモンおまけしてくれたの。鈴木さんってお母さんのコーラス友だちでね、あそこでパートしてるのよ。もう長いみたい。あ、悠樹君おかわりする? 夏帆醤油取って、そっちじゃなくてパックに入ってる方。先に使い切りたいから」
いつもの通り母が一人でしゃべる食卓。変わらない夕食の光景だった。
変わったのは、食事も中盤になってきたときのことだ。黙って立ち上がった父が冷蔵庫に行って戻ってくると、
ドン。
無言で日本酒の瓶をテーブルに置いた。
え? とおもって父を見上げると、
「飲むぞ」
父はぼそりと呟いて、おもむろにお猪口を悠樹に手渡した。おもわずという感じでお猪口を受け取る悠樹。
「お父さん? なにしてんの」
驚いて言うと、父はめがねの向こうからじろっと夏帆を見下ろした。
「父さんは、彼と飲まなくちゃいけないんだ」
「はぁ?」
大きな声が出た。さっき目の前で飲んでたの、昼間と同じ麦茶だとおもってたけど実はウィスキーとかだったんだろうか。
「なに言ってんの」
「夏帆」
父の向こうから、悠樹が朗らかに言った。
「大丈夫だよ。俺そんなに弱くないし」
「え」
目を丸くしてると、ほらな、と父が言う。ほらなじゃないよほらなじゃ。助けを求めるように母を見ると、諦めたようにため息をついた。
「好きにしなさい。言ってもどうせ無駄なんだから」
「そんな」
なんなのこれ。お父さんってば仁侠映画の人たちみたいに、固めの杯でもしようっていうんだろうか。悠樹は未成年なのに。
夏帆の心配をよそに、父は悠樹の持つお猪口に日本酒を並々と注ぐ。悠樹は平然と溢れかえりそうな酒を見つめ、そのままひと息で飲み干した。
「ちょっと!」
「あらすごい」
目を剥く夏帆の横で、母が感心したように手を叩いた。父が意外そうに悠樹を見つめるなか、当の本人は空のお猪口を片手ににっこり笑う。
「うまいですね。俺はもっと辛いのも好きなんですけど」
父の目がわずかに見開かれる。推し量るように悠樹をじっと見た後、少し低い声で言った。
「冷蔵庫に、もっと強いのもある。新潟の工場に行ったときに買ってきたやつが」
「お父さん!」
耐え切れず、夏帆はするどい声を出した。
「いい加減にしてよ。悠樹はまだ」
「子どもだなんて言わせんぞ」
父はめがね越しにじろっと夏帆を睨んだ。
「夏帆も、彼を子どもだと思ってないからするわけだろう」
なにを、とは言わなかった。夏帆はその言葉に、開きかけた口を閉じる。
でもだからって、結婚式の前夜に飲酒を強要する理由にはならない。悠樹の両親だって、明日息子が酒臭かったら仰天するだろう。
「夏帆、だいじょうぶだよ」
細い指と対照的な大きな手が、夏帆の手を包み込んだ。目線を上げると、ただの水を飲んだような平然とした顔で悠樹が笑っていた。
「平気だよ、このくらい。田舎じゃ小さいときから飲まされてたし。それに」
手を繋ぎあう二人をしかめっ面で見ている父に向かって笑う。
「俺うれしいんだ。お父さんからはじめて酒に誘われたんだから」
「お父さんと呼ぶな!」
自分のお猪口にお酒を注ぎながら父が返す。母は会話には入らず、さっさとご飯を食べ始めている。夏帆もため息をつくと、母にならって箸を手に取った。
好きにしたらいい。男って時々ほんとにばかなんだから。
カチン、とガラスのお猪口同士がかち合う音がした。はじまったばかりの夜。
そんなまずそうにするなら飲まなきゃいいのに。
父のぶすっとした顔を見ながら、シチューをすする。夏帆が一人でつくるビーフシチューはどうしてもこの味にならない。材料は同じなはずなのに。NACLが足りないんだろうか、と父のように思ってみる。
「夏帆」
母に呼ばれて振り返る。母は薄く笑っていた。手元のシチューに視線を落として、
「このニンジンね、悠樹君のお父さんが送ってくれたの」
「え?」
手元のをまじまじと見る。先が丸くなったごろごろ切られたニンジン。シチューの中にあっても甘さが感じられた。
母はこっちのキャベツもそう、とロールキャベツを指さした。
「ご近所に農家が多いんだって。いっぱいもらったからって」
「なんで」
言ってすぐ後悔した。ちがう、そんな風に聞きたかったんじゃないのに。
「そりゃ、おいしいもの食べてほしいと思うからでしょ」
母はチラッと悠樹を見る。
「あっちはまだご両親もお若いから、そりゃあ思うことも多かったんじゃない」
早くも呂律が怪しくなってきた父が悠樹に絡んでる。笑いながらそれをかわす悠樹。
悠樹を見ながら、母が言った。
「いろいろ言ったけど、お母さん信じてるから。夏帆と、夏帆が選んだひとのこと」
――お母さん。
母をじっと見る。昔より目の下がたるんでいる。悠樹を紹介したこの一年で、急に老けた気がする。あまり考えたくないことだったけど。
「幸せになりなさい。これは義務よ、あんたたちの」
ビーフシチューのなかにぱたっと涙が落ちていった。ふいに色々な記憶が走馬灯のように駆け巡る。
幼稚園に行きたくなくて、お母さんに抱っこをせがんだ小さい頃。風邪で熱を出すとお父さんが必ずアイスクリームを買ってくれた。悠樹が踊っていたあの庭で、朝顔の観察日記をした。はじめて好きな人と一緒に帰ったところをお父さんに見られた日、恥ずかしくて一週間口をきかなかった。
かほ、おとうさんと結婚する。
そんなふうに言って父に抱きついて、母は笑っていた。
あの日から、なんて遠くまで来てしまったんだろう。
ぽちゃり、ぽちゃりと涙の落ちる音。
あぁやだな。最後じゃん。
こんなふうに家族でご飯を食べるの、最後なんじゃん。
いつの間にか悠樹と父の会話も止まっていた。
ふいに悠樹が座ったまま後ろに下がると、あぐらをかいていた足を崩して正座した。両手を両膝に置いて、夏帆と両親を見る。
「俺、必ず夏帆を、夏帆さんを幸せにします!」
「当然だ!」
間髪入れず父が怒鳴った。めがねの向こうの赤い目に、うっすら涙が滲んでるように見えるのは気のせいだろうか。
「こんなことになって、それで幸せにできなかったらな、どこにいたって追いかけてぶん殴ってやるからな」
いつもの父とは思えない発言。
やっぱり酔ってるよお父さん。
涙のたまった目で父を見る。悠樹は黙って深々と頭を下げた。長い前髪がその表情を覆う。
「約束します」
深い声。父の言うとおりだ。少年だった彼は、いつの間にか大人の男のひとのようになっていた。
夏帆も悠樹の隣に座って、一緒にお辞儀をした。
今日までありがとうございました。
頭によぎった言葉はどうしても言えなかった。胸がいっぱいで、言葉の出るすき間なんて無いような気がした。下げた頭の向こうで、鼻をすする音がする。
幸せになろう。絶対に。
唇の端に流れ落ちた涙は、ふしぎと甘やかな味がした。